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心照古教〜『大学』を考える〜【九】

格物致知

「知を致すは物を格すにあり」

その「物」の一番基本になるのは何かというと、
自分であります。自分も物の一つです。
だから突き詰めていえば、
「物を格す」とは「自分自身を正す」ことになります。
「知を致す」とは、我々に与えられている良心という
正常な鏡を澄ますことです。
この良心という鏡はうっかりすると曇ってしまう。
鏡が曇ると物を正しく判断することができなくなってしまう。
自分に与えられた知を
ちゃんといつも正常に保つことが大切なのだということです。

伊輿田覺『「大学」を味読する 己を修め人を治める道』

「古の明徳を天下を明らかにしよう」とするには、
突き詰めていけば
「自分の良心の鏡を雲らぜず正しく保っておくこと」が必要になる。
だから、これを実践しようとすれば、
「自分自身を正す」ところから始まる

実践の段階を示す八条目

物をただしてのち知いたる。
知至りてのち意誠なり。
意誠にしてのち心正し。
心正してのち身おさまる。
身修まりてのち家ととのう。
家斉いてのち国治まる。
国治まりてのち天下平らかなり。

「大学」

自分自身を煩悩の雲で曇らせず、
正しい判断ができるよう研ぎ澄ませ続けることで
自分が治める家にも、国にも、天下にも
調和が広がっていく。

一燈照隅、万燈遍照ですね(興奮)

天子より以て庶人に至るまで、いつこれみな身を修むるを以てもと
其の本乱れてすえ治まる者は否ず。
其の厚くする所の者を薄くして、
其の薄くする所の者を厚くするは、
未だ之れ有らざるなり。

「大学」

逆に、自分をおろそかにしておいて
天下や国、家の問題を他人事感覚であげつらうことは
不調和を生み出すだけだと解釈します。

自分を疎かにしていると、
自然と「自分を棚上げしてものを言う」ようになるからです。

他人事感覚の意見は、いくら「正論」を装っていても
言った本人が気持ち良いだけで、何の力もありません。

強いて言うなら
当事者意識をもって実践に力を注いでいる人間を不愉快にさせる、
と言う作用があるだけです。

「お客様(皮肉)」はお引き取りください
ってことです。

誰かの批判をできるほどお前はご立派かよ、
と言うことです。

偉そうな口叩いてねえでてめえがやれや、
と言うことです。

すみません、嫌な記憶の影響でお口が悪くなりました。

ともあれ、「治国平天下」を実現ようとするなら、
よく独りを慎んで、
良書を読み、日頃の自分を内省し、
自分の「良心の鏡」を磨くことを土台にしないことには始まらない。

あと、これは私がうっかりやりそうな
自戒事項なんですが、
「自分への愛が満たされない代償として
 誰かのヒーローになろうとする」のもまた、

「其の厚くする所の者を薄くして、
其の薄くする所の者を厚くする」
ことなんだろうと思います。

人には人の学びがある、それを奪うな。
誰かの学びに惑わされるな、
自分の学びに真摯に向き合え。

ってことですね。

私自身、2年前にSNSにチャレンジしましたが
惑わされていらない不安に人生を浪費するということも
しっかり経験しました。苦々しく思いますが、

一億総発信者みたいな、
さまざまな情報がそこらじゅうに溢れかえっている現代と
多くの大人たいじんが国を担っていた幕末との違いは、

ひとり一人が余計な情報を削いで、
自分にとって本当に重要なものを見極めること
だったのかもしれないな、と思います。

三綱領の典拠

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流記屋
知る・学ぶ・会いにいく・対話する・実際を観る・体感する すべての経験を買うためのお金がほしい。 私のフィルターを通した世界を表現することで還元します。