一燈照隅〜身のうちに燻り続けていた燈〜【二】
私が信じてきたもの
私が、これまで人と関わる中で
一等不愉快だったのは、
「優劣争い」です。
もしくは“一般的に”良しとされる何かを
考えもなしに称賛する「画一化」です。
ガワだけ取り繕ったごまかしや、権謀術数、
自分が今いる役割から遊離した中身のない小手先の猿真似、
一面だけを見た勝手な嫉妬、それに伴う批評と、屁理屈じみた口出し、
安易に立場を成り代わろうと画策する狐狸の類が
生まれるからです。
私には、今でも信じている言葉があります。
そうであってくれ、と信じています。
人にはそれぞれ歴史があって、
その時々の場面で他者からどう判断されようが、
生きていくために身につけた生存戦略がある。
自分自身にも把握しきれない、先人たちによってつくられた身体がある。
生きていく中で発生した役割を、その人の仕方で果たしてきた実績がある。
だから、自分のことを等閑にして
誰かがどうこうと人のことをとやかく言う人を見ると
不愉快になりました。
人のこととやかく言えるほどお前はご立派かよ
自分のことに集中しろや、
くだらんこと聞かすのにあたしの時間を使わせるんじゃねえよ
みたいなことが反射的に胸の内に浮かびました。
今になってこういうことに言及している私自身も、
人に惑わされて自分のことに集中できていないのかもしれません。
ただ、今までこの“自分に集中”理論を自分に適用して、
聞かされた時に感じた不快感を「そんなことより自分がしっかりしろ」
と抑圧した結果、鬱憤が溜まって、全てが水に流れた後に
誰に対してでもない怒りがこびりついている状態になったので
思ったことは思った時に、思った相手に伝えるのが
一番精神衛生上よろしいんだろうと思います。
自分を表現して「ちゃんと嫌われる」ことも大事
本来、人間に優劣はない。
競争とか画一化とか糞食らえ。
「みんなと一緒」で安心してんじゃねえよ。
自分自身にこういう価値観があることを自覚してから、
「確かにそうだな」と思う一つの考え方に巡り合いました。
それは、
というもの。
若干意訳を含んでいるかもしれませんが、要約すると、
といった具合です。
私自身にも、思い当たることがありました。