明徳発輝〜わたしの心願〜【三】
「自分の仕事が欲しい」
私は2023年中、あちらこちらと旅をしてみました。
仕事によって「自分が居て良い場所」を探す
「おてつたび」と、
気になるから行ってみよう
というただのたびとで
10箇所くらいふらふらしました。
その途中、
神戸のイオンに立ち寄った時、
書店に並んでいた
養老孟司さんの『ものがわかるということ』と、
西村宏堂さんの『正々堂々』をパラパラと立ち読みしたんですが、
頭の中に残ったのは、
誰に対するメッセージかで
必要な「ことば」は違うんだろうな、
という感想です。
『ものがわかるということ』で指摘されていた、
という言葉に、
今の自分が“明徳発輝”
を心願に据えた経緯を思い出して
羞恥心を刺激されました。
確かに、出発は
侮られることへの悔しさだったのかもしれない。
私が幼少期を省みて得た教訓は、
大人は大人の都合で生きている、ということ。
大人の都合を優先して、自分の身体の信号を、
大人と一緒になってノイズを見做してはダメだ。
「そういうものだから(圧)」の中で、
しっかり守って育てなきゃいけないものを守るのは、
私にしかできないことだった。
誰から憎らしかられようが、
しれっと守ったもんがちだった。
これは、自分の知覚を
「他」への意識で抑圧することに対する、
一度呑み込んだからこその“拒絶”です。
本来あるものなのだから、求めなくていい
というのは、
すでに大事にできていたから言えることであって
一度渇望を抱えたら、
誰かに「そういうものだ」と言われたからと
あっさり納得できるものではない。
個性は体そのもの、生きている限り役割は発生するもの
とはいえ、この言葉は確かに、私に刺さって
葛藤を生みました。
生きている限り、役割は発生している。
集団に馴染めないで、蚊帳の外にいる人は、
その集団の集合無意識が偏っていくのを引き止める役割がある
と聞いたことがあります。
「七人の侍」の、一番若くて非力な若侍には、
「語り継ぐ」という役割があった、とも。
自分たちのことを語り継いでくれる存在があるから、
その集団のパフォーマンスが上がる。
守られて、命を繋ぐ役割というのもある。
私は義務教育時代、体育がまるでポンコツでした。
「とりあえず真面目に頑張っているから」
まんなかの評価を得ていたと認識しています。
野球は敵チームの守備の方達に
道案内してもらってベースを周り、
バスケは敵とジャンガジャンガして
ナイスプレイと言われました。
こうして、自分の居場所さがしを始めたこと自体、
「ぽんこつ」という、
すでに与えられている役割の拒絶でしかないのかもしれない。
私が推定した私の役割
私は今回の旅で、いろいろな方にお世話になり
落ち着かない仕事も、落ち着く仕事も経験させてもらいました。
その都度自分を深掘りして、
自身の「歪み」や、本当の欲求に気づいていきました。
旅の途中、
たまたま話し相手になってくれた方達から
話を聞いたり
「一方的にお世話になっている」ことへの悔しさから
「できることさがし」をしたりする中で
「多重知能」という考え方を知りました。
遺伝によって決っている固有の能力
「多重知能(Multiple Intelligences=以下MI)」は、
ハーバード大学教授の
ハワード・ガードナー(Howard Gardner)氏が
提唱した考え方で、ざっくり要約するとこんな感じ。
私の大好きな「明徳」や、
「一隅を照らす燈」「足下の泉」とあい通じそうです。
この知能は以下のように分類できます。
自己診断をしてみると、
私は内省的知能が群を抜いていて、
あとに言語・語学知能続き、実存的知能がその次に高いくらいで
あとの5つはパッとしなかったりまるでポンコツだったりしました。
自分の「内省的知能」と「言語・語学知能」を活かせることは
何かを考えた時、
読書やSNSで
情報を受け取って、
自分の感覚を言い当てられたような言葉や、物語と出会った時に
心地よさや、救いを感じてきた事を思い出したんです。
こうやって、
経験と内省を繰り返す中で生まれてくるものを
言語化することが
私がついついやっちゃうことで、かつ、
誰かのためにもなることなんじゃないか、と思いました。