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五弁のドクダミの花で「いいこと」がありました
一昨日、公園で五弁のドクダミの花を見つけました。
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珍しいものを見つけたと喜んでいましたら、一年以上も前に書いたnoteに思いがけず反応をいただきました。
こんな風に読んでくださることがあるんだなぁと、しみじみと嬉しくなりました。この花のおかげかも。
反応をくださった方と、この記事の内容になにかの共通点があるのでしょうね。noteのアルゴリズムは時間を超えて素敵なことをしてくれます。
2021/2/19にアップしたnote
いただいた反応がきっかけで今読むと、今の自分には書けない書きっぷり。
その時々に感じたことは、その時にしかアウトプットできないなぁと、改めて思います。
「今日の自分は昨日の自分と似ているけれど、ちょっと違う」というようなことを以前に誰かから聞いたことがあるのですが、後回しにせずにその時書いていてよかった。
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『森羅万象とアトムの心』を今読んで
いっとき感情が全く動かなくなったことがあるせいか、「心が動くのを感じる」というのは、生きている実感がものすごくします。
そして、アトムにはそれがないことを喝破した谷川俊太郎。
この人も南方熊楠と同じ何かを見ていたのかもしれません。
だから今は、心が動いた瞬間を自覚できることが宝物だと思っています。
そして、心の動き(=感情)はどんどん生まれては流れて行きますので「カタチ」がありません。だから人々はそれを留めたくて歌にしたり絵を描いたりしてきたのでしょう。
そういえば、和歌をつくることを「詠む」と言いますが、その時の心の動きを「凍結」して「永遠」のものにするから言偏に「永」と書くのかもしれません。
そして和歌を味わうことを「読む」と言いますが、こちらは言偏に「売」。
「売」という字は本来「賣」と書きます。
「賣」=「買」+「出(放出する)」 *集めた貝を放出する=売(賣)る
「買」=「貝」+「網(集める)」 *貝を網で集める=買う
なので、
「文章や歌や絵画に凍結された心」を解きほぐして新たな言葉として語ることが「読む」なのでしょう。
コンピュータの世界では「圧縮」ソフトと「解凍」ソフトの関係ですね。
「詠む」と「読む」という方法を得たことで、人間は時空を超えて「心の動き」を何度も再生できるようになったのだと、今ようやく言葉にすることができました。
それが五弁のドクダミの花の「いいこと」の二つ目でした。