平家のみやび 「紺紙金字無量義経」
とても美しい紺紙金字の無量義経。
東京国立博物館で見つけました。
治承2年(1178)に平基親が発願した経で、舞を奉納する童が愛らしい。
衣装の色もとてもスタイリッシュ。
濃紺に金。ネイビーにゴールド。
この配色に、この差し色。
素材も文字も絵も豪奢で洗練されていて、
とってもお洒落でかっこいいスタイリング。
このお経の巻物を発願(プロデュース)した平基親(たいらのもとちか)は清盛の継室の平時子側の系譜の桓武平氏の人。
何年か前の大河ドラマ『清盛』で、深田恭子が演じる時子が松山ケンイチが演じる清盛に源氏物語の話をしたり、清盛のことを「ひかる君」とか言っていたけど、平家のキラキラは、この血筋だったようです。
「平(たいら)」という姓を賜った氏族「平氏」の中で、桓武天皇の血を引く流れには二つあります。
桓武天皇の皇子、葛原親王(かずらわらしんのう)の子の代から分かれ、一方は東国で武士となってゆき、一方は京の中流貴族として存続します。
葛原親王の第三子の高見王の子である高望王(たかもちおう)は上総介に任官され自ら任地へ赴任してゆきます。そしてそのことが発端となって東国での武士団を形成してゆき、ここから平将門や平清盛などへと繋がってゆきます。伊豆に居た北条時政、義時もこの流れの一つです。
一方、葛原親王の長男の高棟王(たかむねおう)は文官として出世し最終的には大納言となります。子孫は代々受領を務める中級貴族として存続し、清盛の継室となった時子(二位尼、徳子の母)や後白河天皇の女御として寵愛を受けた滋子(建春門院、高倉天皇母)はこの血筋です。
その二つの桓武平氏の流れが、200年以上の時を隔て、清盛と時子の結婚によって再び合流したのですね。
*
ところで、この『無量義経』って、聞いたことのないお経ですが、調べてみたら『法華経』で語られる長い長い話のプロローグにあたるお経でした。
「無量」というのは「量るが無い」、すなわち「はかりしれない」こと。それは「大きすぎて」だったり、「無さすぎて」だったり。
冒頭で「私はこんな風に聞いているんです」と前置きして、「一時、仏(ぶっだ)は王城である「耆闍崛山」の中に住んでいた。」から壮大なお話が始まります。
この辺りには、いろんな「非ず」がでてきます。
段組みになっているところの5行目からは
身体は有るでもなく無くでもなく
因でもなく縁でもなく、かといって自他でもない
方でもなく円でもなく、かといって短長でもない
出るでなく没でなく、かといって生滅でもない
造るでなく起でなく、かといって作為でもない
・・・
とにかく、定まるところが無い「無常」。
12世紀から13世紀にかけて、平氏から源氏へ、貴族から武士へと世がうつって行った頃は「末法」の時代。(日本では伝統的に1052年(永承7年)に末法に入ったとされた)
そうしたことも影響していたのか、こういった(なんだかよくわからないけれど、とにかくなんでもありかもしれない)モノの見方が広く拡まって行った頃だったのかもしれません。
『法華経』には女人でも往生ができると説かれていて、法華経にでてくる西方の極楽浄土の阿弥陀如来は、皆が心惹かれる憧れの存在。
そして当時、そんな阿弥陀さまのお話をしてくれる法然は女性にとても人気がありました。浄土宗の開祖となった法然。東博の同じ会場には、法然上人の絵巻(撮影禁止)も展示されていて、法然が女性に囲まれて話をしている場面もありました。
* 「阿弥陀」とは「無量寿」「無量光」という梵語の音訳
そしてこちらは、鎌倉時代につくられた無量義経の巻物
平基親の発願したものと同じく紺紙に金字ですが、法華経にでてくる場面を描いています。
どちらも、とても綺麗。
だけど
仏に救ってもらうより、仏を楽しませるほう。
やっぱりこちらの方が好き。
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