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幸せですか?Ⅱ

 幸福になる方法を探って、幸福論を読んでみよう。第二回

↑前回はアラン『幸福論』

 今回はラッセル『幸福論』(安藤貞雄訳、岩波文庫)とショーペンハウアー『幸福について』(橋本文夫訳、新潮文庫、改版)です。
 授業を受けるような気持で、理解したことを逐一ノートにとりながら読もうとしたのですが、結局は面倒くさくなってスマホのメモにチョコチョコ書いただけでした。
 哲学を専門に学んだわけでもない素人の感想なのであんま信用せず、この記事で幸福論を理解したとは思わないで、気になったら自分でも読んでみてくださいっ!(顔の前で両手をグーにするカワイイポーズ)

ラッセル『幸福論』

 第一部(一~九章)が不幸の原因、第二部(十~十七章)が幸福をもたらすもの。
・成功して金を儲けることだけを考えていると、より大きな儲けを望むようになり、終わりのない競争に人生を費やすことになる(三章 競争)。
 私はお金、稼ぎたいですけどね。お金は自分で使うだけあれば十分、とまでは言ってないだろうけど、使いきれないほど資産を持ってても無駄じゃないか、ということ。人より多く持っていることを自分の価値だとしてしまうと、死ぬまで無数の他人と数字で張り合い続ける生涯を送る羽目になるのは想像できますね。お金はもう、これくらいで結構。みたいなラインを自分で引けるとよろしいか。会社を早期リタイアして貯蓄や投資で暮らす生き方はそのままこれの実践になってるかも。そうしたくても、皆がみんな、余るほど稼げるわけじゃないのが現実ではありますが…。
 「彼らは、子供をもうけたいと思うほど人生をエンジョイしていないのだ」との記述もあり、これはちょっと価値観の古さが出ているなと感じた。不必要な競争に身を捧げていては人生を楽しめていない、までは分かるが、楽しんでいるなら子孫を残したいと思うはず、とは論理がつながっていかなくないか。人類の盛衰と私の幸福とは無関係なので…。

・退屈なのは不幸だが、必ずしも悪ではない。優れた偉業とは多くの退屈な時間を耐え抜いた先にあるため。短期的な快楽を次々に求めていてはなにも成すことはできない(四章 退屈と興奮)。
 「コンテンツのフォアグラになるんじゃねえぞ」とオモコロの永田も言ってましたね。

・身体的な疲れや、純粋に知的な疲れは一日の終わりに睡眠によって解消できる。一方で情緒的な疲れ(悩み、心配)は休息自体を妨げるので、より厄介。こうした心配事=恐怖への有効な対処とは娯楽などによって目を逸らすことではなく、正面から向き合ってそれが恐怖ではなくなるまでよく考え抜くこと(五章 疲れ)。
 嫌だなぁと思うことようなこととか、よくない心理状態になった時はそのままにしちゃいけないってことですかね。実際、私なんかも心配事が無限にあるような気持ちになった時、ノートに箇条書きしてみると3つくらいしかなかったうえ、そのうちいくつかはずっと先の予定だったりその気になりさえすればすぐ解決できるものだったこと、ありますね。
 嫌だと思ってたけどよく考えたらそれほど嫌でもなかった、みたいな経験は個人的にあまり心当たりがないのですが、みなさんはどうですかね?嫌いな人だったけど、ソイツの立場でも考えて見たりしたらそんなに悪い奴でもなかった、みたいな時、ある?
 「最悪の場合でも、人間に起こることは、何ひとつ宇宙的な重要性を持つものではない」(だから、そんなに心配しなくていい)と書いてあるんですが、私は自分が嫌な思いをするのは宇宙が爆発するよりも嫌です。

・心配に次いで、ねたみが不幸の大きな原因である(六章 ねたみ)。
 この章はちょっと書いてあることに心当たりが多過ぎてダメージを受けました。妬みを克服するには幸福になるしかないが、妬みを持っていることが幸福になることを妨げているという罠。確かに私にだって面白いことはあるが、アイツらはいつも私よりもいい思いをしているじゃないか!自分の感じた幸福を、人と比べずに喜べるといいのですけど。

・その道徳はただの迷信ではないのか?教育によって合理性のない道徳観を植え付けられていて、罪のない快楽にまで罪悪感を感じるのは幸福の妨げである。結果として自分や誰かの苦痛を生むのでないなら、良いと感じるものは享受するべきである(七章 罪の意識)。
 訳者解説で「宗教的」と言われている部分。性的な問題は、まぁ。貞淑を美徳とする動機はなにも宗教に限らないと思うけど。自分がどうでもいいと思っている道徳を律儀に守る必要はないのかもね。

・ナルシズムの負の側面を語る。実際は、あなたが思っているほどみんなあなたに興味ないよ(八章 被害妄想)。

・人は生き方や価値観を社会的に認められたい。自分の考えが周囲の人間と合致しないのは不幸である(九章 世評に対するおびえ)。
 おもしろい文章があった。

旧弊な人たちが慣習からの逸脱に激怒するのは、主として、そういう逸脱は自分たちへの批評だと受けとめるからである。彼らにしても、ある人が十分に愉快で人なつっこくて、自分たちを批評しているのではないということが極めつきの馬鹿にもはっきりわかるような場合には、因習にとらわれないふるまいの数々をも許すことだろう。

p.144

 投獄されない範囲で自分の思ったように生きるべきだが、それは自分がいいと思うからそうするのであって、あくまで周囲にたいして挑戦的にするべきではないというお話。

・色々なことに興味を持とう。生きがいは多いほどいい(十一章 熱意)。
 ここからは第二部。第一部で見てきた不幸の原因の多くは、意識が自分の内側に向いた結果生じるものなので、外界に目を向けようというわけ。自分の不幸についてはあんまり考えてはいけない。

・17章は総論です。幸福な人とは、自由な愛情と広い興味を持つことで、自分自身も他の人から愛情と興味の対象になるような人。善人として生きた人生は幸福な人生になる。

 第二部についてはこれだけです。いちおう全部読んではいるけど、第一部ほど興味をそそられなかったから…。幸福な人の特徴について書いてあるのだけど、愛されていて仕事にも満足しているような人が幸福なのなんてわざわざ言うまでもない、当然の事じゃんと思ってしまった。でも、読んでいる時の私の状態が悪かっただけの可能性は大いにある。あんまり集中力がないから。二度目に読んだら全然違うことを思うかもしれない。みなさんの意見もお聞かせください。
 

ショーペンハウアー『幸福について』

 性格の悪いジジイ。おもしろい文章が多くて、読んだ幸福論の中で個人的には一番よかったです。
 解説によると、この本は『筆のすさびと落穂拾い』という晩年の随想集に載った『処世術箴言』なる部分の全訳で、もともとは『幸福について』という書名ではないらしい。
 緒言にて、幸福とは(死が怖いのではなく)このまま生きていたいと思っている状態、と定義。が、そもそもショーペンハウアーの哲学では人間は幸福になるために存在しているわけではないんだけど。みたいなことを書いていて、これから幸福論を語ることに乗り気でないような顔をしている。

大切なのは人としてのあり方であり、現実をどのように見つめるかが重要。偉大な詩人は普通でない体験をしたのではなく、普通の出来事にも普通以上の感動を見出したのである(一章 人間の三つの根本規定)。

富を殖やすための手段の世界を自己の視界とし、この狭い視界からそとに出れば、何一つ知らない。精神はからっぽで、そのため、ほかのものはいっさい受けつける力がない。最高級の享楽、すなわち精神的享楽は、高嶺の花である。暇はかからないで金のかかる刹那的・感応的な享楽を合間合間にむさぼって、最高の享楽の填め合わせをしようとするけれども、一向填め合わせにはならない。それでさてご臨終の時の総決算はといえば、運がよければ、事実、莫大な黄金の山を積んで、相続人に遺していくが、相続人がこれをもっと殖やすか、湯水のように使ってしまうか、知れたものではない。だからこんな一生は、いかにも真剣な勿体ぶった顔つきで過した一生ではあっても、赤い頭巾に鈴つけて道化者でございと世を渡った星の数ほどある人間と、ばかさ加減は変わらない。

p.18

 長い引用をしてしまった。このように、嘲り笑っているのかブチギレているのか、強い語調で金持ちを非難している。これは訳者の功績もありそうだが、なんだか声に出して読んでみたい文章じゃないですか?
 「有り余る富は、われわれの幸福にはほとんど何の寄与するところもない」から、健康の維持と自分の能力を高めることを第一に努力しよう、という。「終わりのない競争」を理由にしたラッセルとはまた論点が違うけど、過剰な稼ぎに反対しているところは一緒ですね。ただ、十分だと満足できる暮らしのラインは個々人の思想によるし、どこからを有り余る財とすべきかをどう決めればいいのだろうか、とは思いました。これについては三章で言及があり、実際はっきり決めるのは難しいっぽいです。
 引用部に出てくる「精神的享楽」というのは本書を通してのキーワードで後にも出てくるのですが、これは信仰心云々みたいなことではなく、思考を深めていくことや学問を究めることとかのようです。ここで批判している填め合わせにならない享楽とは、ラッセル言うところの短期的な快楽と同じものでしょう。多分。
 自分の持てる才能を駆使して金銭的に成り上がっていくのがなにより幸せだっていう人がいても、別にいいと思うんですけどねぇ。それが無駄だというわけですが。

朗らかさこそが幸福そのものであり、朗らかであることに富は役に立たず、健康がなによりも有益である。
 人を幸福から遠ざけるものは、苦痛と退屈の二つである。しかし、この二つはどちらかと距離を取ろうとするともう片方に近づいてしまうようにできている(貧困による苦痛を避けるために安定した生活をすると、今度は余裕が出てきて退屈に。逆も然り)。しかし、精神的に優れている=時間を活用することを知っていれば、退屈を感じることはない。凡夫は時間をやり過ごそうとだけ考えるため、退屈を持て余して社交なんてことをやりだす(二章 人のあり方について)。
 
幸福でいたければ朗らかであれ、陽気であれというのはアランの『幸福論』とも同じですね。結局、幸福に実体なんてものはないから、自分は幸福だと思いこんで前向きな気持ちでいるのが一番の方法だということでしょう。まずは自分が不幸だと思うのをやめろ、というのがラッセルの言っていたことなわけでもありますね。それができりゃあ苦労はねぇが、まぁできる範囲で頑張りたいです。

したがって全体として見れば、誰でも精神的に貧弱でなにごとによらず下等な人間であればあるほど、それだけ社交的だということが知られるであろう。

p.32

 朗らかであれと言ったそばから陰キャの王みたいなことが書いてあってすごい。ただ、ショーペンハウアーの中の社交のイメージって、どうやら所謂社交界なんだよな。まぁ、大きく人との交流、という意味でとっても読むのに問題はないと思うけど。これは、人と会って遊んでばかりいて孤独に頭を働かせてみる時間を全く取らないのに反対しているのであって、友達を一人もつくるなと言っているのではないと思います。精神的に優れていない者たちで集まって遊び騒ぐのは刹那的な享楽、ラッセルの言う短期的な快楽になるのでしょう。
 退屈は幸福を妨げるという部分、ラッセルが退屈は必ずしも悪ではないとしていることと対立しているかと思ったけど、ショーペンハウアーは成果を上げるまでの試行錯誤や思索の時間を「退屈」だとは捉えていないというだけですね。

・生来が貧乏な人は、偶然降って湧いたような富は自分の生活には余計なものと考えパッと使ってしまう。働かずのんびり生きていけるほどの財産をはじめから持っている人のほうが、これを上手く使って財産を維持しながら生きていく術を知っており、計り知れぬ強みである(三章 人の有するものについて)。
 それはそうだろうな!!!!!!!
 幸福を妨げる二つの要素のうちの、苦痛には生まれながらにして無縁でいられる可能性があるということ。ただし、精神的に高い能力を持たなければもう一方の要素である退屈は避けられないから、金持ちの家に生まれたからと言って無条件に幸福になれるわけではない。

・自分が実際どのような人間であるか、ではなくて他人の目にどう映るかで幸福を測る人間は、自身を誇ることができないのでそうするのだ。人にどう見られるかは、そう重要ではない。どんな社会的地位よりも健康が大切(四章 人の与える印象について)。
 名誉欲は妥当なところで抑えておかねばならない。過剰に欲するなというところでは、財産と同じことを言っているかも。
 自分にたいする他者からの非難について、事実でないなら気にしなきゃいいじゃん、と言っている。しかし、事実でない中傷を信じる人もいることや、それによって評判が下がることもあるのはショーペンハウアーも否定しない。でも、そもそも他人からの評価なんか気にするなという主張だから、風評を信じ込んで悪く思うような愚昧にはそう思わせておけばいい、という考えなのだろう。

ところで自分の価値にけちをつけようとする他人の陳述をあわてて抑えつけ、それが人の耳にはいらぬようにしようとするのは、自分の価値に自信がない証拠である。だから罵詈されても、本当に自己を重く見ていれば、全く平気なわけだし、また自己を重く見る気もちがないために全く平気ではいられない場合でも、知恵と教養とがあれば、ともかく平気を装い、怒りを隠すであろう。

p.111~112

 現代、特にインターネットに関連した世界だと風評による損害は大きすぎるから、この考えが今でもどの程度通用するだろうか、というところ。ただし、攻撃的な意見が出た時に(開き直っているわけではなくて)平然と処理している人は確かにかっこいいと思う。
 このあと、殴打は殴打であってそれによって名誉がどうこうというのは迷信である、という話が割と長めに続くが、ここは騎士道的道徳みたいなのが絡んでいて、昔の外国の話だなぁという感じ。
 人から褒められるのは嬉しいものだが、本当に価値があるのは讃えられるということではなく、自分が讃えられるほどの人間だという事実である。自分の能力が高いことこそ肝心なのであって、それが他人に認められるかは二の次である。実際は大して偉くないのに、愚かな大衆から偉いえらいと見なされるということには、本当の価値はない。
 (私も含めて)承認がほしくてたまらずにインターネットとかをやっている現代人にとっては、なんだか都合の悪い正論のようですが。

・第五章 訓話と金言では、全体の1/3くらいあるのですが、まとめというか、これまでを踏まえた上での具体的な助言みたいなものがいくつも書いてあります。
・幸福や享楽は実在しない一方、苦痛は現実のものである。苦痛を感じずに済み、さらに退屈もしていないなら、人はおおむね幸福だと言える。
・お作法やお約束みたいな儀礼じみた決まりごとは全部無意味。みんな無意味だと思っているのに決まりだから仕方なくやっていて、人に退屈を与えるので悪。
・たくさんのことに手を出すとそれだけ悩みや無駄な手間が増えていくので、できたら生活はちいさくまとまるのがよい。
・思慮深い生活を送るために、自身の過去の経験や判断を反省し、役立てるとよい。なので、今の自分の考えが失われないように日記をつけるとよい。
・夜に考えごとをしないほうがよい。
・なにか一つのことに取り組むときはそれだけに集中し、他の考え事はわきに置かねばならない。
・他人の善性を簡単に信じない。
・学問の成果でも芸術作品でも、自分の能力を使ってなにか完成させると、うれしい。

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 ということで、幸福論でした。当初予定していたぶんはこれで全部読みましたが、いかがでしたか?
 私は、マトモなことが書いてあるなぁと思いました。古さを感じる部分もありましたが、そこはまぁ、人類史上最新の頭脳を持つ(はずの)我々が、なんかいい感じにやっていけたらいいと思います。悪意に満ちた世界に目に物を見せてやりましょう。

 どの本もさしたる対立はなく、中でも、幸福になるためには自分自身が幸福だと思い込んで明るく陽気でいる必要がある、というところは共通していました。どうする?みんなで歌でも歌う?「こちら、幸福安心委員会です。」とか。元気な性格のほうが全てにおいて得なのは私の25年生きてきた体感でもそう。

 私、自分で興味深いと思った部分ほどよく読んでいたり、あんま理解できなかった部分はそのまま流したりしているので、よかったらアナタが幸福論を読んだ時の感想も教えてね。私の読めてないところや誤読の指摘、ほかに読んだ方がいい本などをコメントに書いて、みんなでこの記事を完成させよう!(丸投げ)

 本の中身にこんなに触れた文章をインターネットに書くのははじめてなので、怒る権利のある人から怒られたらハイパー平謝りします。

そしてそのとき、素晴らしいことが起きた━━僕を愛してくれる人たちがいることを、僕は知ったのだ。そんなふうに愛されることで、すべてはいっぺんに変わってくる。落下の恐ろしさが減るわけではない。でも、その恐ろしさの意味を新しい視点から見ることはできるようになる。僕は崖から飛び降りた。そして、最後の最後の瞬間に、何かの手がすっと伸びて、僕を空中でつかまえてくれた。その何かを、僕はいま、愛と定義する。それだけが唯一、人の落下を止めてくれるのだ。それだけが唯一、引力の法則を無化する力を持っているのだ。

ポール・オースター『ムーン・パレス』

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