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幸せですか?

 幸福になるにはどうすればいいのか、そもそも幸福とはなんなのか、正解はあるのだろうか。最近そんなことを考えていたので、『幸福論』を読んでみました。

 幸福論について調べてみると、ヒルティ、アラン、ラッセルによるものを指して「三大幸福論」と呼ぶらしい。でも、西洋哲学って読んでも分かんないしな、とも。とりあえず「幸福論」に関係のありそうな本を三冊だけ選んで注文してみました。

 寺山修司『幸福論』。まずはこれ。寺山修司って実は読んだことなかったのだけど、有名な文筆家であるわけだし読みやすいかと思って。
 読んでみた結果、ちょっと思ってたのとは違ったかもしれない。あの人がそう言った、この人がどう言った、みたいなエッセイっぽい本だった。文章自体は面白いものもあるけど、幸福について論じている部分がよくわからなかった。高く評価している人も多くいたので、当時に近い空気感や雰囲気を知っているかどうか、とかもあるのかな。
 
 飯田史彦『生きがいの本質―私たちは、なぜ生きているのか』。これはねぇ、求めている本とは違った。プロローグとはじめに、だけ読んだけど、ちょっとスピリチュアル要素があるようだった。子供が生まれてくる前の記憶を語る事があるのを基に、「意識体」の実在を事実からの推論として論じていた。
 まぁ、読み方次第では役に立つかもしれないが、私の読もうとした本ではなかった。なぜこの本を選んだかというと、「幸福論」のwilipedeliaの関連書籍一覧に載っていたんだよね。だから主要な幸福論について概観した入門書的な本だと思ってしまった。参考文献、じゃなくてあくまで関連書籍だものね。そもそもwilipedeliaだし。

 アラン『幸福論』。三大幸福論の中では一番読みやすそうだったので。実際、3~5ページくらいの短い文章の連なりで構成されているので割と読みやすかった。超要約すれば、「気に病むな、行動せよ。冷静であれ」と書いてあった。
 くよくよ考えても意味ないし精神衛生には大変よくない。また、不機嫌は不機嫌を生みどんどん不幸になるから、できるだけ礼儀正しく明るくいるべきである。

 寺山修司の『幸福論』には、「アランの幸福論などくそくらえ!」という文章がある。ほんの気紛れにしかならない、ということだ。

この、アランの幸福論は、ベトナム戦争だろうと、李珍宇の女子高生殺しだろうと、すべて幸福に化してしまうきわめてユニークなものである。

寺山修司『幸福論』

 実際にアランを読んでみた感じ、なんでもない日々を少しでも心穏やかに過ごすための方法論、という印象を受けた。日常をポジティブに捉えてみようという提案なわけで、本当の不幸が訪れることは想定されていない気がする。なので、寺山の批判が正当か、私には判断がつけられなかった。気紛れにしかならないのは確かなんだけど、気紛れをすることで前向きになろうという話だから。
 起きてもいない不幸のために思い悩むのは苦しいし不毛だからやめよう、という主張に納得感はあるものの、確かに、実際に不幸に見舞われた場合について論じ足りない気はした。理不尽に酷い目に遭うことって、ないことじゃないと思うんだ。なにがあっても、なにをされても平静を崩さないというのも、それはそれで人間性を捨てているんじゃないか。

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 というわけで、少しだけ幸福論を読みました。
 どうかしら。
 そもそもの「幸福とは」みたいな疑問は解消されていないかも。これからも色々読んでみようと思いますね。2冊だけで「幸福」が理解できるはずもないので。次はラッセルとかがいいかも。ヒルティは多分読まない。岩波文庫で全3巻もあるし、宗教的見地からの幸福論らしいし。西洋哲学を読むのが一番かっこいいと思っていた時期にキルケゴールの『死に至る病』を読んだんだけど、キリスト教の信仰が前提に書かれているせいでほぼ共感できなかった、ということもあった。
 ラッセルの『幸福論』と、ショーペンハウアーの『幸福について』あたりが気になる。読んで理解できるかわかんないけど。いつか読もう…いつかね…。

 幸福とは、しあわせとはなんなのだろうか。しあわせとは?みたいなのを考えてみると、「お金が十分にあって、ステキな女の子に愛されている」というのが、私にとっては一番しっくり来るしあわせの形なんだよな。俗に寄り過ぎて嫌になるけど、私の貧弱な思考力ではそのへんに落ち着く。
 「愛と安心」を求めているってことになるのかしら。結局、人間のシステムとして自分の持っていないものを希望するように出来ているのだろうか。希望せずとも、すでに当たり前に満足できる給料が入っていて、普通に恋人がつくれる人たちは、「さらなる富、名誉」みたいに、安心のその次を求めるのかな。なんかあったよね?欲求のピラミッド的なヤツ。望むものに順番があって、人間はまず生存の保障を望むようにできていて、最後には承認欲求がくるとかいう、アレ。
 どうなんだろう?思い描く幸福の形には個人差が生まれる余地はどれくらいあるのか。

 リア充爆発って大昔にネタで言ってたけど、最近半ば本気で憎しみを感じるようになってきている。貴様たちだけ愛されやがって。憎い…私にないものを持っているお前たちが…!
 ↑こういうのは本当によくないので、考えないようにしていきたいですね。私以外が不幸であることが、私が幸福であるにはつながらないはずなので。人と比べて勝っている/より多く持っている優越感は、幸福の本質ではないような気がしている。

「僕もうあんな大きな暗の中だってこわくない。きっとみんなのほんとうのさいわいをさがしに行く。どこまでもどこまでも僕たち一緒に進んで行こう。」

宮沢賢治『銀河鉄道の夜』


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