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心の苦しみは境界から生まれる ーケン・ウィルバーの「無境界」を読んで
今、私がドハマりしてているのがケン・ウィルバーの著書。
昨年ブレイクした「ティール組織」は、ウィルバーが提唱したインテグラル理論が元となっていることもあり、再度注目されているようです。
(この調子で絶版本が復活してほち)
今回読んだ本は無境界という本。・・・いや、異質すぎる装丁。笑
そして!実はこの記事もう2週間くらい温めているのですが、
全然まとまらない(笑)
内容がダイナミックすぎて全然伝えられる気がしないです。
なんで、もう伝わらない前提でいこうと開き直りました・・・(・▼・)
意識の段階とかセラピーの俯瞰図とかに興味ある人は読み進めてみると面白いかもです。
+++
元々、会社の本棚にあったのを何気なしに手にとった本書。
読み進めるうちに、雷に打たれたような衝撃がありました。
なぜなら、
・私が今まで経験してきた内的な段階的成長
・今まで受けてきた数々のセラピー
の全体像(俯瞰図)が記されていたからです。
すべてはこの図が物語っているのです・・・!(デデーン)
「無境界―自己成長のセラピー論 」ケン・ウィルバー (著), 吉福 伸逸 (翻訳) (1986)P25より引用※以下、引用部分の書籍名は省略させて頂きます
初見はなんじゃこれですね・・・。
超ざっくり言うと
「人間の意識には成長段階があって、
成長段階に応じて対応するセラピーがある。」
ことを示している図で、斜めに引かれている線が「境界」です。
上から下に向かっていくほど意識が広い
=意識に境界がない状態となっています。
この図に描かれている意識段階の全体像や境界という概念が
私の中では自分のメンタル状態を把握するのにすごく役に立つなと思いました。
ちなみに一番下の状態は、いわゆる非二元(ノンデュアリティ)や仏教でいう空の状態までいってしまうので、そこまでは触れません。
本記事ではまだまだ私が格闘している
自我の境界部分を取り扱おうと思います。
境界とはなんぞや
まずタイトルでもある「境界」とは何ぞ。というのを理解すると
この図がより生き生きと見えてくるかと思います。
さて、突然ですがここで質問です。
影が存在するための条件はなんでしょう??
こたえ:"光"がないと影は存在し得ません。
同じように、
<買い手>がいるから<売り手>が存在する。
<死>があるから<生>がある。
<不幸>があるから<幸福>がある。
片側だけではその概念自体が存在しえないのです。
このことについて、ウィルバーはこう述べています。
例えば、「わたしは快楽を求める」という文章をつくったとしよう。ところが、その文章のなかでは快楽の不可欠な対である苦痛には言及されていない。
実際の世界では、一方からかけ離れて他方が存在しないにもかかわらず、ことばのうえでは快楽と苦痛を分離することができる。
この時点で快楽と苦痛のあいだの線は境界となり、その2つの分離から説得力をもつ幻想が生まれるのである。
対立が1つのプロセスの2つの別の名前にすぎないことを忘れ、相対立する2つの別のプロセスがあると思ってしまうのだ。
ー P54より引用
本来は相対立することで成り立つ1つの概念に境界を設け、
その片方のみを認める態度をここでは述べています。
「実際の世界」ではそうであるにも関わらず、私達の脳内では、幸福という概念のみがあたかも存在するように扱っているということです。
そしてこの境界こそが自我の分離を対立を生みだし、葛藤を生み出します。
我々が抱えている問題の大半は、境界とそれが生み出す対立の問題なのだ
ー P42より引用
でも実際、体感として我々は「幸福」と「不幸」を経験している。
境界がないとしたら、それを一体どうやって認識するのか?という疑問がわくかもしれないです。
その点においては、
元々は対で存在している(境界のないもの)を前提としつつも、
認識をするときは"線”で区分すると述べてあります。
しかし、線は実際区別するだけでなく、両者をつなぐものでもあります。
たとえば陸と水のあいだの海岸線のようなこれらの線は、ふつうわれわれが考えているように単に陸と水の分離を表わしているわけではない。
アラン・ワッツがしばしば指摘していたように、これらのいわゆる「区分線」は、同時に陸と水が互いにふれあう場所をそのまま表している。
つまり、これらの線は区分し、識別するばかりか、つなぎ、結合するのである。
となると、これらの線は境界ではない。
これから見るように線と境界には大きな違いがある。
ー P51より引用
これは、国境で考えると分かりやすいのかなと。
私が勝手に考えた例なので厳密にウィルバーの世界観を表せているかわかりませんが、国境は本来、ただの線にすぎないはずです。
実際の国境を思い浮かべると分かりやすくて、実際に「ここから◎◎という国です」と書いてあるだけです。(壁がある所などもありますが)
でも、境界という概念が入ると、
所有や民族、土地といった観念が入り込み
国境はただの線ではなく境界となり、その内側と外側にあるものは分離されます。
内側にあるものだけが
”私達の守るべきもの・アイデンティティ”であり
外側は"私達と異なるもの"へと変化します。
そうなるとそこには、わたしたちの国 VS 他の国といった図式が成立し、
戦争が生まれやすくなります。
ですが、そもそも線を引く前にはそこにはただ広大な自然がひろがっている
無境界な状態があるはずなのに、私達はそれをすっかり忘れてしまているねってことなのかなーと思います。
実在する線は、われわれがその両側を分離した関連のないものだと思いこんだときに幻の境界となるのである。その2つの外面的違いを認め、内面的な一体性を無視したときに幻の境界となるのである。
ー P52より引用
自分が苦しい時は、この境界が自我に及んだ時
再び図に戻ります。
一番上の「ペルソナのレベル」では、
今まで述べてきた”境界”が自我の中にある状態を示しています。
そして、何と何の間に境界をもうけているかというと、
「ペルソナ」と「影」の間です。
・ペルソナ(自分が良いと認めている自分=例えば優しい)
・影(自分が否定している自分=例えば冷酷)
この分離状態がひどくなると、わたしたちには苦しみが生まれます。
そこに"あるもの"を否定しているからです。
この境界は割と分かりやすいかなと思います。
例えば、自分に冷酷な部分があったら多くの人が「そんな自分は認めたくない」と否定すると思います。
もっといえば、殺意や社会的に良くないとされる考えなどはなおさら抑制され、否定され、自分の影(シャドウ)になります。
ただ、ここにはなんというか罠がある感じがします。
冷酷という部分は決して、私たち個人に存在しているものではなく、光は影ないのと生まれないのと同じで、"優しさが成り立つための前提条件"なのです。
ですから、自分の中にいくら冷酷さを見つけようともそれは、当たり前のことなのだと思います。
どんなに優しくて菩薩のような人でも、その人の心の中は知り得ることはできません。
究極の優しさを持ち得る人はこの自分の中の究極的な負の部分をまるごと認めている人なのだろう、と個人的には思います。
ただ、「認める」ことと、
「自分は冷酷な人間だから、どんなことをしても良い」という風に開き直り、これを実行する(究極的には殺人など)または外に出すこととは
天と地ほどの違いがあるのでそのへんは理解してくれよな★(謎キャラ)
状況次第で自らの自我の側面に触れることを拒絶することがある。
自我の望みや欲求の中には、あまりにも異常で脅威や禁忌に思えるものがあり、それらを認めることを当人が拒絶するのである。
欲求を持つ事はその欲求を行動に移すことと同じではないかと思い、それが招くひどい結果を恐れて、そのような欲求を持っていたことを否定してしまうのだ。
ーP144より引用
昔の私は、この否定的な部分を"自分のもの"と思いすぎていて、
こんな冷酷な部分があってはいけないーと思い、
冷酷な自分が出てきた時にむちゃくちゃバッシングしてました。
とゆうか、今でも半自動的に行うくせがあり、
こんな醜い感情が湧く人間なんて生きている価値がない。とよくなりますw
ですが、この自分の中にあるペルソナ(良い部分 )のみを自我と認める態度を続けると、自分の意識がどんどん分離して自我が小さくなっていく状態が生まれます。
これを解消するには、ペルソナとシャドウを統合することです。
自分の醜さや弱さも存在しうることを認め、自分の意識の中に引き入れることがペルソナレベルでの「統合(インテグラル)」になります。
抑圧した自分(シャドウの自分)に気づくには?
では、抑圧したシャドウに気づくにはどうしたら良いのでしょうか。
通常「自分にはない」と信じ切っている部分なので無意識化していて、気づくことが難しいです。
このシャドウに気づくためには、
他人という鏡に意識的でいることです。
イライラを感じてしまう人、なんだか心惹かれる人など自分が過敏に反応する人の中にシャドウが潜んでいます。
自分にはない部分を他人(外側)へ転嫁すること。
これを投影といいます。
(この原理をもうちょっと知りたい方は「ユング 投影」あたりでググってみてください)
私も日々この投影に向き合うように心がけています。
何かイライラする、悲しくなる、非常に心が揺れてしまう相手と対峙した時などは、「私は相手に何か自分の認めたくない部分を投影していないだろうか?」と考えるようにしています。
そうすると、時々自分でゲロ吐きそうなくらいに醜い自分、気づきたくない自分が見えてくることがあります。
最近見つけたゲロ案件は「人より優位にたちたい」という思いが非常に強かったときですw
こういった自分の負の部分に気づいた瞬間、やっぱり臭いものにフタをしたくなります。
そういった抑圧する力が出てきた場合も意識的にこれを緩めます。
この内的な処理がうまくいくこともあれば、なんだかずーとモヤモヤすることもあるし、まだまだ模索中です。
ですが、経験則で最近ようやく分かりだしたのが
「その投影を自分の中にもあると認めること」と「その人を好きなること」はイコールじゃないんだな、ということ。
あまり投影を突き詰めてやりすぎると、とうふメンタルな方は特に自責に向かいやすいと思うのでこのへんは注意かなと思います。
また、これは方法論の一つであり、ペルソナとシャドウ自体もユングが唱えた理論の一つです。
やりすぎてしんどくなったこともあったので、辛くなったら緩くやりましょう〜(自戒)
セラピーの俯瞰図を手にして、わかったこと
私が今まで、セラピーとして取り入れ、効果があったものとして
「論理療法」や「瞑想」などがあったんですが、
その時に対比されるのが
論理 ⇔ 感覚(語弊を恐れないで言うならばスピリットな一面)
という真逆の方向を向いていて
今まで「私は一体どこにむかっているんだろ〜」感があったんですが
冒頭の図を見て、対応している意識レベルが違うんだなとすごく腑に落ちました。
また、意識レベルはずっとそこにとどまっているものでもなく、
状況によって変わるようです。
ですから、私自身がこころと向き合う時に
論理療法といったおそらく上の層に近い手法も使ってもいいし、
同時に瞑想といった下の層に近い手法も使ってもいいし、そこはすごく自由なんだなと思いました。
色々なセラピーをうけてもしんどかったという方、
本書はセラピーの指南書になると思います。
最後に:人間を包括的な存在としてみるために
冒頭でチラっと出てきたウィルバーの「インテグラル理論」は、人間の全体性を捉えるのに4象限というフレームワークを利用します。
引用元:http://integraljapan.net/words/aqal.htm
※「無境界」では意識のスペクトルを中心に書かれており、あくまで左上象限のみにスポットをあてている位置づけなのかな〜と個人的には思っております。
今まで、内的な意識開発というと、どうしてもスピリチュアルの世界観によった話になりがちでしたが、このフレームワークを使うと
人間が
・内的(主観・スピリット)な存在
・物質的(肉体)な存在
・文化的な存在
・社会的な存在
といったすべてのものを包括した存在であることを認識できます。
インテグラル理論については、私もまだ理解がおっついてないので、多くは語れないですが、人間を多面的に捉えられたことで、
すごく視野が広がった気がします。
この図が掲載されているこちらのサイトもわかりやすかったです。
http://integraljapan.net/words/aqal.htm
ただ、万物をフレームワークに抑え込もうとしすぎると
また違った方向にいきそうなので、
あくまで方法論であり、グラデーションが存在することは忘れないようにしようと思います◎
ケン・ウィルバーも「万物の理論」で"固定的で最終的な理論ではなく、
単にもっと良いものを得る手助けになるかどうかという目的のもの"といっていましたし。
で、今までダラダラ書いたんですけど、最後に、
ケン・ウィルバーのwikiに「ウィルバーの思想活動の基盤にある根本的な発想」としてまとめられていた一文が泣くほど好きなので、これを紹介して終わります。
私は人間ちっせぇので「自分が正しい」ってなりがちですが、いつも、なるべく、こうゆう気持ちで生きていたい!
世界に存在するあらゆる視点は必ずある真実を内包する。
従って、必要とされるのは、存在する多数の視点のうち、どれを最も正しいものとして選択するかということではなく、それぞれの視点が内包する真実を認識・尊重したうえで、それらがどのように相互に関係しているかを理解することである。
ーケン・ウィルバーのWikipediaより
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