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PERFECT BLUEいつかのリバイバル上映感想

題名こそが本題。

原作での正式タイトルはPERFECT BLUE 完全変態

作中に登場する解離という言葉に劇中の様々な出来事に惑わされそうになるけれど、題名の通りこの映画は解離ではなく別離ひいてはそこから完全な存在へと成る物語である。

私は本物だよ、という霧越未麻自身の言葉通り。

何回、何十回と観た映画だけれど未麻が牛乳はやっぱり牛印と言っていたように映画はやっっっぱり映画館。
これぐらいの贅沢は許そう。
自宅のテレビ画面や気のそれがちな環境とは違い、スクリーン画面を観るしかない状況。
静かにするべき場所なのになんだかそわそわしてしまうような、限られた箱の中にはたくさん人が居る不思議な空間。
そして誰もが自分自身の言葉や感想、思想を持ち合わせてそこに居るのだろう。
何かを思う為、得る為、吐き出す為、処理する為。
劇場に足を踏み入れた以上は座席を指定し、そこを己の定位置としスクリーンと向かい合わなければならない。
劇場特有の雰囲気に包まれる空間は視点も相まって見えてくるものがまるで変わってくる。

あなた、誰なの。

この言葉は一見、解離現象の引き金であるようでいて別離のきっかけである。
私は誰で、あなたは誰なのか。
私は私である。
アイドルの霧越未麻ではない。
アイドルとして演技仕事をしていた頃とは違い、このたった一言しかない台詞から霧越未麻の女優人生は始まった。
アイドルの自分と別離をし、女優としての自分を始めたのである。
完全なる変態を遂げる為には今まで包まれていた殻を脱ぎ捨てなくてはならない。
幼体の体を今まで自身を覆っていた殻の中で原形なく溶かし、美しく羽ばたく蝶として完全に成る為に。

あなた、誰なの。
その言葉から女優としての仕事が始まった時、周りの人間はアイドル上がりの新人女優、霧越未麻の事など見やしない。
誰も知らない。
二年半もの間、自身を知っているファンという存在に囲まれる事でアイドルとして活動してきた人間にとって自身の事を知りもしない人間達に囲まれる環境はカルチャーショックにも近い経験となるのではないだろうか。
私は誰なのか、私は私なのか、はたして私はここに居るのだろうか。

あなた、誰なの。

作中を通して行われるこの問いは未麻自身に対する問い掛けなのだろう。

ミスリードに次ぐミスリードに次ぐさらなるミスリード!
脱がせ専のカメラマンが殺害された直後が特にわかりやすいミスリードだと思う。
一見、未麻自身が殺害に及んだ用にも思えるシーンだがマネージャーであるルミちゃんの姿がアイドルの未麻に見えていたようにあのシーンもルミちゃんなのだろう。
目覚めた未麻が自身の手を見つめるシーンは一見、その手でカメラマンを殺害した事を現実なのか確かめている様にも思えるが
実際は何度も夢と現実を行き来した彼女は今は現実なのか確かめようと先日、ティーカップを壊した際に「この血は本物だよね」と負った怪我の有無を確認しているのだろう。
部屋にあった血に濡れた衣服と紙袋はルミちゃんが未麻が眠っている間に持ち込んだものだと思われる。

車で送り届けたルミちゃんが未麻が眠っている際に自宅に送り届けている事や間柄から合鍵を持っているのは不思議な事ではない。
なにより、その紙袋が未麻が行っていないと言った原宿での買い物の際に持っているものなのだから。

作中に出てくる人格性解離障害という病も未麻のことに思わせているようでいて実際はマネージャーのルミちゃんの事なのだろう。

作中において本物の霧越未麻が赤を着るシーンはない。
アイドルとして何度も登場した未麻が纏う衣装の色はピンク色。

赤に白を混ぜて濁らせた色。
作中の最後に混じり気のない赤色を纏うのが本物の真似事をするあまり自身を本物だと思い込めるまでになってしまったルミちゃんであるのは皮肉だなと感じる。

あの人がいたから今の自分がある、その言葉はマネージャーとして支えてくれたルミちゃんに掛けている言葉でいて実際はあの人がアイドルとしての自分と別離をさせてくれた、アイドルとしての霧越未麻はあの人が持って行ってくれたという意味に思える。
ルミちゃんが完全にアイドルの霧越未麻と成る事で女優の霧越未麻はアイドルの霧越未麻と決別したのだ。
私は本物だよ。
彼女はアイドルを演じる事のなくなった、本物の霧越未麻なのだ。
誰にも見向きもされずに始まった新人女優の霧越未麻がたくさんのスタッフの輪の中に囲まれたその時から。

か弱い女の子で居て、とことん強かな主人公であったといつもこのラストシーンに思わされる。
この作品全編がアイドルの霧越未麻が女優の霧越未麻として脱皮し完全変態を遂げる物語なのだから。




今敏監督の遺作(本当は制作途中で亡くなってしまった作品があるけれど)のパプリカでもよく使われていた描写が時折見受けられるのがちょっとした楽しみでもあった。
エレベーターの演出や軽やかにはためく幻影の存在、建物のガラスに反射する人物とその真実。
そして夢と現実の混同。
作中劇の台詞と登場人物の人生を重ね合わせていくのも同監督の千年女優を思わせて楽しめたけれどやっぱりPERFECT BLUEこそが私にとっては完全な存在だなと感じる。

ありきたりな言葉で言えば原点にして頂点というやつ。


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