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折戸先生、お元気で

たまに見る悪夢がある。夢の中の私は小学生で、20名程の教室の一番後ろに座っている。
答案は白紙。

中学受験が嫌だった。なぜ受験をしなければならないのか、愚かな子供だった私はその価値も理由も全く分かっていなかった。

10歳の頃、親に連れられて受験塾に行った。体験授業の後、入塾テストを受けたら大人達が喜んだ。

私は実感のないまま一番上のAクラスに入ることになった。

その後も全く予習と復習をしないまま通塾していた。
何故点数が取れたのか分からないにも関わらず、たまたま塾内テストの結果が1位だったりしたもんだから、このままで良いんだと思い月日が経っていった。

そして、いつの間にか段々と点数が取れなくなっていった。
授業の内容も全く分からない。そもそも理解度が低いまま結果だけ良かったので、「何が分からないか分からない」段階がとっくに過ぎた状況だった。

気付けば得意だった国語だけで他の科目の点数を支える形になっていた。反復学習が必須な算数はもはや全国最下位レベルであったと思う。

危機感を覚えて授業外の時間に質問することも試みたが、改めて解説されても全く分からないままだった。
「先生が想像するよりも遥かに私の実力は低いんです」と伝える事も出来ず、手に負えない状況だけが膨らんでいった。

そんなこんなで時は経ち、いよいよテストで本当に1問も分からない時が訪れ、0点を取る恐怖にかられた私は、あらかじめプリント配布されていた答案を見ることを覚えた。
カンニング病の始まりである。

最初は「今日だけ」「この問題だけ」と自分の中で取り決めをしていたが、次第に常習化していき、最終的に実力で解ける国語も含め全科目のテストで答えを書き写していた。
完全に思考を放棄した状態だった。

もはや私にとって受験塾は、いかにしてその時間をやり過ごすか、それだけを考える場所となっていた。

そして私の悪事は小さな教室内ですぐに噂となり、あっという間に村八分になった。
一番賢いクラスではリーダーシップに優れた子供も多く、その子達がクラス中を巻き込む形で手の込んだ嫌がらせも受けていたが、私にとってテストの0点を避ける事はそれ以上の死活問題だったので止められなかった。

担当科目によって講師の対応は異なった。
私の存在ごと完全無視を決め込む講師もいれば、敢えて授業中に私に当て続け、皆の前で練習問題を答えさせる講師もいた。もちろん答えられる事はほぼ皆無だったが、稀に正解すると周囲のクラスメイトが残念そうにしていたのが印象的だった。

また、全国模試では流石に自力で解くしかなかったので、惨憺たる模試結果を受けて「お前は何のために受験するんだ?」と問うてきた講師もいた。

え、何のためだろう?
私何のために受験するの?

その問いには本当に答えられなかった。
与えられている環境、という認識以上の回答が自分の中に無くて呆然とした。

「自分のためだろ!」

あまりに長い沈黙に痺れを切らして講師が教えてくれた。

そっか。自分のためなんだ。

受験が何故自分のためになるのか理解できていなかった愚かな私だが、情報のインプットはできたので、2回目以降は「自分のためです」と答えるようにした。


そんな日々が受験の半年前まで続き、限界が訪れた瞬間もテスト中だった。

なんか、お腹痛いかも。
いや気のせい?
うーん、やっぱり痛い。

テスト中に先生に声を掛けるほどの痛みか、我慢できる痛みか考えていた数分後、目眩がしてきたため流石にマズイと思って立ち上がった。

「先生、お腹痛いです、、、」
教室の一番後ろにいる講師のもとまでふらふらと歩く。

直後、

ビシャーーーーーーー!!!

と私は盛大に嘔吐した。

反射的に口元を抑えた両手が虚しく汚れた。
第二波、第三波と次から次へと床に落ちていくとてつもない量の吐瀉物。

なす術もないまま垂れ流しながら、私は自分がストレスを抱えていたことをゆっくりと自覚していった。

一気に出し尽くした後、視界がブラックアウトする。
ある男子の「ゲボ吐いた、、、」という言葉だけが静寂に響いていた。


自家中毒と診断され一週間後に塾に行くと、Bクラスに席が移っていた。
2月まであと半年しかない時期にクラス変更する生徒などいる訳もなく、好奇の目に晒されたが、仕方なく教室に入り席に着く。

どんなに嫌でも塾には通わなければならなかったので、また心のスイッチを切って時計の針が過ぎる事だけを考えた。

あー、算数だ。今日はどうやって時間を潰そうかな。

「今日からだな!折戸です。よろしく!」

久しぶりに講師から笑顔で話しかけられ、自己紹介まで受けた私は軽く面食らった。
Bクラス担当の算数講師は、自分のような子供にも自ら挨拶をしてくれる大人だった。

この頃の私は世界中に敵意を剥き出しにしており、無言で睨み返してしまったが、そんな私の無愛想も意に返さず折戸先生は授業に取り掛かった。


…ん?あれ?
……お?


折戸先生が授業を始めて数十分後、私は何十ヶ月ぶりに真面目に授業を受けていた。

わ、わかる。
この人が何を話しているのか、わかる!!

これまで外国語で授業を受けているような、突き放され続けていた算数の授業に革命が起きた瞬間だった。


それから半年。少しずつ理解できる範囲が増えていった私は0点の危機に瀕することもなく、自分の力でテストを受けられるようになり、どうにか私立中学の受験に合格した。
偏差値も中堅クラスの学校で、私には十分過ぎる結果だった。


中学に入学してから暫く経って、私は再び折戸先生に会いに行った。

キリスト教の告解に近い気持ちで「私、すごい問題児だったよね」と話したら、「そんな事ないよ!もったいない時はあったけどね」と爽やかに返してくれた。
折戸先生ならそう言ってくれると思ってた。

そして先生は、一枚の紙に携帯のメールアドレスと電話番号を書いて渡してくれた。

今なら絶対にすぐ登録して、定期的に連絡を取っていたと思う。

けれど中学生になったばかりの私は、男の人と連絡を取り合うことなど全く無かったので、それが急に特別な事のように思えて、怖くなってしまった。
携帯電話を持たされて数ヶ月だった事もあるかも知れない。
折戸先生が爽やかな若い先生だったからかも知れない。

何故か当時の私は、その瞬間に「大人の男の人と連絡をしても良いのかな?」と、お門違いな自意識が芽生えてしまったのだ。

悩んだ結果その宛先に連絡する事なく、母親にも言えずにそのメモを捨ててしまった。


振り返って感じるのは、学生時代に心から信頼できる教育者と出会える確率はほぼゼロだということ。
私にとって唯一が折戸先生だった。
悪評判の生徒に、初対面できちんと名乗ってくれた折戸先生。

大人になるにつれて何度も会いたいと思ったけれど、かつての塾も今はなくなり、もう会う術も持たないので、この気持ちだけでも届きますように。

折戸先生、お元気で。




end.

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