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ユートピア的京都の裏側を覗く「果実の中の龍」『きつねのはなし(森見登美彦)』より
今や押しも押されもせぬ人気作家である森見登美彦による奇譚集。
彼の作品特有の、おどけたような、可笑しな雰囲気とは対照的な、深々とした京都が描かれる作品集。暗闇の中の怪しげな気配に耳を澄ませるような静謐な物語ながら、彼の作品の根幹をなす、「現実にするりと入り込んでしまうファンタジックな存在」を捉える視座は変わらずで、地続きの想像力から生まれる正反対な物語の振れ幅の大きさもさることながら、そのどちらもすごく面白くて、読むたびに「やっぱり、すごいなー」と思わされる本。
今回書くのはその中の一編である「果実の中の龍」について。
「小説を書くことについて書いた小説」というのに興味があって、これもその一つとして気に入っていたので、久々に読み返した。
あらすじ
京都にやってきたばかりの一回生の頃、「私」は、ある人文系の研究会で、「先輩」と知り合う。先輩はやがて研究会には顔を出さなくなり、「私」もまた、研究会に足を向けなくなっていった。
ある日、古本屋で先輩と出会う。立ち話をしていたら、先輩から「バルザック伝」を借りる運びになり、そのまま下宿へと誘われる。
先輩は、研究会時代から、興味深い身の上話や体験談を話す謎めいた人物として異彩を放っており、以降、「私」は、先輩の下宿に通って、先輩の話に耳を傾けるようになる。
先輩を通してかかわりを持った「瑞穂さん」と、三人でクリスマスの食事会を行うも、先輩が瑞穂さんにプレゼントしようとした龍の根付を彼女が拒むという悶着が起きる。
一年生の後期は、先輩の下宿に入り浸っていた「私」だったが、二年からは彼とは距離を置き、自分でも何らかの体験をしたいとアルバイトに精を出すようになる。結局、不慣れなことをして身体を壊し、寝込んだところを先輩に助けられる。「自分はつまらない人間だ」とこぼすと、先輩も、「僕だってつまらん男だぜ」と返す。瑞穂さんに、先輩への劣等感を語ると、どうやら思うところがあるらしい彼女は、うんざりした風になる。
先輩から狂乱の年代記を書きつけ幽閉されたという祖父の話を聞いたのち、岡崎で瑞穂さんと話す機会があり、その折に先輩の話は全てが虚構だと告げられる。
京都に戻り、先輩の下宿へと向かうと、「私」が自分の秘密を知ってしまったらしいと察した先輩は言葉少なになり、遂に桜の木の下で、見知らぬ他人の旅行記を拾って以来、作り話をあたかも本当のように語って聞かせることに「取り憑かれて」しまったと語る。以前は自分の話が嘘くさく感じて、それがたまらなく嫌で人を避けて下宿に籠っていたが、嘘を語り始めるといくらでも能弁になれたという。結局、話を揚げ足を取られて嘘が明るみに出て、研究室にはいられなくなったらしい。そして、彼は「最後の話」をする。
そして、「私」に、龍の根付と自伝を記したノートを渡して、先輩は姿を消す。
最後に、瑞穂さんは、根付はもともとは彼女が先輩にプレゼントしようとしたものだったのだと明かす。
根付を渡そうとする「私」の手を彼女は拒み、新幹線に乗り込む。東京の研究室に移るらしい彼女を乗せた新幹線が行ってしまうのを呆然として見送ったのち、「私」は、やがて明るいホームの上を歩き出す。
再読は難しい?
読書会を主催していて、ちょっと気付いたことがあって、わたしはその読書会のお題本を中学時代に読んだ本(つまり、五年以上前!)をお題本に選んだりしているのだが、そうなると、その時の記憶をもとに「これは心動かされる本だ!みんなにも読んでもらいたい!」と思って選んでも、実際に当日前にもう一度読んでみると、心動かされた部分はわたしの記憶違いだったり、誤読だったりということが出てくる。それでも、わたしはその部分に心動かされてその本を選んだわけだから、その当時の解釈で話して、参加してくださった先生から、優しく「きみの目は節穴なのか」的なことを言われるという出来事もあった。
そんなわけで、「再読って、難しいんだなぁ」と思った。
わたしの読み方
中学生の時、森見登美彦がけっこう好きで、その頃のイメージでは、彼は、『四畳半神話大系』や『太陽の塔』あたりの、可笑しな大学生の話を書く人、という感じで、『きつねのはなし』みたいな、それ以外の小説も面白いとは思ってたけれども、箸休め的な感じで読んでいた。(反対に、京都にいないにしても、本物の大学生になった今では、そういう大学生モノへの興味は無くなってしまった)
彼の小説で大学生を描いたものは、だいたい男の友達二人組がいて、小津の言うところの、運命の黒い糸的な、ヒロインですら入る隙のない二人だけの強い結びつきを見せてくれる(正直、こういうのにはちょっとついて行けない)。そして、それを成り立たせているのは、「お前、やるな!面白いやつだな!」「お前もな!」という、相互的な承認だろうというと思う(読んだのはみんな数年前だけれど)。特に、森本君と飾磨君や、芽野君と芹名君。
男友達の「私」には良いところだけを見せようとする癖に、恋人の瑞穂さんには、情けない姿をさらし続けても涼しい顔をしていられる先輩の姿には、やはりホモソーシャルを感じないではいられない。
しかし、その一方で、先輩の場合は、「私」の「面白いやつ」でいることから降りて(降ろされて)、自分の弱さを吐露する場面がある。
先輩は自分が空っぽのつまらない人間なのだと語った。
「私」の方も、インフルエンザで寝込んだときには、先輩に看病されて、弱音を吐く。
私は布団の中で身を縮めていた。「僕はつまらん男です」と呟いた。
このふたりは、面白さを競い合うことを諦めて、お互いに弱みを晒し合う。それでも、先輩はきちんと「わたし」を看病してくれるし、「私」は
「本当でも嘘でも、かまわない。そんなことはどうでもいいことです」
と言ってくれる。
なのに、先輩は、嘘がばれたら潮時と言って、下宿を引き払って忽然と消えてしまう。瑞穂さんもいなくなり、ひとり京都に取り残された「私」は、ホームで呆然とする。
「僕は良い聞き手でしたか?」と尋ねた「私」に、先輩は「理想的だった」と答えるけれど、先輩にとっての「私」は、理想的な聞き手である以上の存在だったし、それこそ彼の求めていたものであったのではないかと思う。
しかし、先輩が姿を消してこの方、私は彼ほど語るにあたいする人間に一人も出会わない。
この一文は、先輩を小説家のアレゴリーとして見た場合、二重に心に沁みる。
この小説は、『太陽の塔』のような大学生モノの楽屋ネタ的な作品として読んでも面白いと思う。
しかし、散々引きこもりになった先輩のお世話をしていたにもかかわらず、贈り物の根付のことを忘れられ(忘れた振りをされ)るわ、前述のように、男友達の前では格好つけるくせに、自分にだけは大嘘吐きであることを平気で晒して、嘘に調子を合わせないと不機嫌になるわ、散々な目にしか遭ってない瑞穂さんは、先輩と別れて大正解だったように思う。
瑞穂さん視点で見ると、先輩はかなり不快な人間なのではないか。
蛇足かもしれないけれど、この小説の先輩は、住居としていた部屋の隣にもう一部屋借りて、本置き場にしているという設定なのだが、森見登美彦も学生時代、下宿に本が増えすぎて、地震が起きたら危ないということで隣にもう一部屋借りて本棚だけ置いていたらしい。それを知ったときは、家賃の安さもさることながら、その読書量の膨大さに舌を巻いた。何かの雑誌の企画で、仕事場の写真が載せられていたこともあるのだけれど、学者の研究室のように硬派な本がたくさんあって、「いや、すごいな‥‥‥‥」と思った記憶がある。あまり硬いイメージの作品を書かれているわけじゃないだけに、驚いた。やっぱり、作家って教養が必要なんだなぁ、と思った。
これらのことを思い出すにつけて、(色んな)本を沢山読まねば、と思わされる。