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世界とひきかえに愛した自分
半額シールのついた大トロのパックを手に取りながら、著者はふと絶望する。
「人生って、これでぜんぶなのか」
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自分を取り巻く世界がとても小さなものに思えたり、反対に、とてつもなく大きく感じられたりすることがある。
たとえば一日の大半をベッドの上で過ごした時。重い腰を上げてやっとの思いでコンビニに行き、「袋いらないです」がその日初めての発話だった時。その自分の声が、お世辞にも人の声とは言えないほど情けなく掠れている時に、私は落ち込む。今日という日の私の世界には、生命力にあふれた素敵な私は存在しない。あるのはベッドとコンビニと、時間を溶かすショート動画だけである。
よく晴れた冷たい空気の夕方、高層マンションの立ち並ぶ都会を散歩している時。オレンジ色に光る窓が天にずらりと並んだ光景を見て、そこに住む人の生活を想う。あんなところに住んでいるのだから、きっと今日も幸せなんだろうとか、いや、私には想像もつかないほど壮絶な経験をしてきたのかもな、とか。考えているとくらくらする。こんなにたくさんの人が思い思いの人生を送っているこの世界を、私はとても受け止めることができない。
小さな世界も、大きな世界も、なんだかむなしくよそよそしい。
私には、半額の大トロのパックにぜんぶの人生を見てしまうこの著者が、決して他人とは思えないのだ。
◆
真夜中にベッドの上で菓子パンを頬張り、食べかすとともに眠る39歳独身男。
「テーブルになってくれない?」と恋人に平然と言い放ち、ホームランのボールが怖くて野球観戦ができない。
寿司屋で、洋服屋で、飲み会で、「自然に」振る舞うことができず、我が身かわいさだけをこじらせ突き詰める歌人のエッセイ集。
「世界音痴」たる著者の行動の数々は、なかなかにやばい。青汁とサプリと菓子パンにまみれ、ロマンチックな妄想に耽る日常は、ベッドで一日を無駄にする私なんかかわいく思えるほどである。
「そこまで卑屈にならなくても・・・」と心配になるほどの自虐的ユーモアに呆れたり笑ったりして油断していると、ときどき心の声が「わかる」とつぶやいている。あれ、もしかして私もやばい?
そんなスリルを感じつつ、こんな文章に出くわすと嬉しくなる。
「息苦しい現実の裏側の、きらきらしたもう一つの世界。誰もがその存在を知っている。風邪の高熱に苦しんだ後で熱が引いてゆくとき、世界は軽やかで美しい。ライブを観終わった直後の興奮の中で、生きることは自由で熱い。恋の始まりのとき、私たちは炭酸の泡に包まれているようだ。笑い合わずにはいられない。だが、そんな感覚はどれ一つとして長続きしない。」
「きらきらしたもう一つの世界」に包まれているときのみ、世界は私のものだ。この無敵感。全能感。あぁ、常にそんな自分でいられたらいいのに。
◆
「彼のやばさを笑うことは、自分自身を笑うことだ」という真理が浮かび上がってゆくのを気付かないふりをしながら、どんどん読み進める。穂村弘という人の放っておけない魅力を存分に堪能したのち「あとがき」にたどりつくと、なぜだろう。切なくて泣けてきてしまうのだ。
著者は「この世は一度きり。主人公は誰?」という言葉にとらわれて、世界に自分だけを取り残したのは紛れもなく自分自身だったと気づくのだ。
この「あとがき」は名文だと私は思う。
世界とひきかえに自分だけを愛することを突き詰めてしまった男。「息苦しい現実」と「きらきらした世界」、「世界」と「私」をめぐる人生の孤独に、ほんの少し勇気づけられた。そのことが、私と世界とのひとつの接点を見出してくれるような気がしている。