11階
また雨だ。
最近、梅雨でもないのに雨がよく降っている。雨は暗くてジメジメしていて、何より上空から水が降ってくるという意味不明の天気だから嫌いだ。雨という天気の異常性を「自然だから」という一点で片づけるのは少々無理があると思う。
加えて、今の私は本当に暇である。つい最近までいろんなことに追われており、同時に己の怠惰さを痛感するばかりであったが、忙しい日々というのは突然終わるものだ。やらなければいけないことが急に無くなったとき、人間という生き物は困惑する。
今朝から途切れることなくスマホを見ている。自分でもおかしいと思うぐらいスマホを見てしまう。何かをちゃんと見ているわけではなく、タイムラインが流れる様子をボーッと観察しているだけだ。その割に時間はすぐに経ってしまう。こんなに生産性のない行為は他にない。
最近、暇なときは散歩をしているのだが、この天気では外に出るのもおっくうだ。かといって暇をつぶす方法もないし、このままずっとバイトの時間までスマホを眺めていては確実に腐ってしまう。しぶしぶ外に出るということだけ決めた。問題は行き先である。極力濡れたくはない。窓の外のどんよりとしたグレーの空を見上げてぼんやりしていると、突然ふと思いついた。
「上に行ってみよう」
私は22年間、実家のマンション住まいである。私が住むマンションは11階建てで、その3階に我が家は暮らしている。そういえば小さい頃はよくマンション内を探検していて、上の階にもよく行っていた。それが年齢を重ねるにつれて自分が住む階より上に行くことは無くなった。上の階に用事などないし、行く理由がない。しかしよく考えてみればそれはあの頃も一緒である。用事があるからとかではなく、単純に高いところがワクワクするから行っていたのだ。危ない危ない、この気持ちを忘れて気づかないうちに大人になってしまうところだった。雨が予期せぬ気づきを与えてくれた。
ナイキのジャージを羽織って家の外に出た。とりあえず最上階を目指そう。エレベーターを使うのでは味気ないので、階段で上がって1フロアずつぐるっと周回してみることにした。
まずは自分の住むところから1つ上の4階だ。もう結構高い。住み慣れた高さから1フロア上がるだけで、こんなにも恐怖を感じるのか。当時から思っていたことが、再び頭をよぎった。4階は私が住む3階と構造が同じなので特に様相は変わらず、高さだけが変化したという感じだ。廊下を歩きながら表札を見ていると、このマンションにもいろんな苗字の人が住んでいるんだなと感じた。当たり前といわれればそうだが、自分がマンションで生活していて顔を合わせる住人は、ほとんど同じ階層の顔見知りなので、別の階は異世界という感覚がある。だから、このマンションにいくつもの家庭が詰め込まれているというのがどうも信じきれない。そう考えるとマンションってちょっとカオスだ。
ぐるっと1周しては1つ上がるを繰り返し、6階に到達したところでフロアの雰囲気が変わってくる。それは感覚的にも構造的にもである。3階にはない柵やベランダがあらわれ、明確にステージが切り替わる。そして階層が上がるにつれて、転落した際の致死率も上がっていくことが分かる。今、ここで落ちたら死ぬなという確信がある。一番身近に死を感じられる場所かもしれない。
7階に到達したところで行き止まりに遭遇した。うちのマンションには階段が3か所ある。そして私が住む棟の階段からは7階にまでしか行けないようになっている。屋上に続く階段には錠がかけられていて、7階より上に行くには別の棟から上がるしかない。本当にゲームみたいだ。ゲームが現実世界を模したものなのに、私はそう感じてしまっていた。
死の危険を肌に感じながらフロアを上がっていく。高いところに行けば行くほど、柵の強度に懐疑的になる。絶対に大丈夫という保証がないから、うかつに柵の方へはよりつけない。というかこの建物自体大丈夫なのかという気にさえなる。突然足場が崩れたりしたら一貫の終わりではないか。人間、危機に瀕するとこういう余計な心配をしてしまう。
そんなこんなでとうとう11階に到達した。足がすくむとはこのことである。もはや「落ちたら」死ぬとかではなく、直感的に「死」を感じる高さだ。見える景色も全く違う。自分より低い位置に建物が存在している非現実的な状況に、一種の高揚を覚えた。しかし、やはり3階に住む人間が11階に来るべきではない。3階に住む人間と11階に住む人間とでは、高さに対するキャパシティが違いすぎる。なぜ死と隣り合わせの場所で生活を営むことが出来るのか。異世界の人間の感覚を理解することは難しい。
最初は階段で3階に戻ろうと思っていたが、さっさとここから退散したかったため、エレベーターを使うことにした。しかしエレベーターはよりによって1階から上がってくるようだ。私はこういうちょっとだけ待つのがすごく苦手だ。1時間とか2時間待つのであれば逆にどんと構えられるが、電子レンジの1分とかカップラーメンの3分とかは待ちきれない。結局30秒ぐらい早く開けてしまい、ぬるかったり硬かったりする。
エレベーターがのろのろ上がってくることに我慢が出来なかった私は、11階の柵を乗り越え飛び降りてみた。あれだけ高いと思っていた場所も、少し勇気を振り絞ればなんてことはない。ものすごい勢いで風を切る音が聞こえ、どんどんコンクリートの地面が近づいてくる。意外と走馬灯は見ない。それよりも「バイトまでに雨やむのかな」とか考えていた。地面にたたきつけられるのと同時に視界が途絶え、気づいたらコタツでスマホを眺めていた。まだ雨は降っている。予報によれば明日の朝までやまないらしい。仕方がないのでバイトには車で行くことにしよう。