ハンバーグとじゃがいものピュレの機微。|エッセイ
独裁者のいない家は、みずみずしい安穏がたわわに実る。
熟した果実が、青くやわらかい草上へ落ちるように、ごく自然とこの身が解放される。
わたしの奥から透明なふくふくしたやすらぎが立ちのぼる。ホッと息がもれる。
すると、裏のドアあたりからズドン!と激しい音がした。
そういえば、昨夜の夕飯時。近所のおばさまから電話があった。いまの電話機器はすごい。登録さえしておけば、着信の主のなまえを音声で通知してくれるのだ。
「プルプルプルプル…〇〇さんからお電話です。」
こちらが受話器をあげるまで通知してくれる。
電話に近いところにいた独裁者が「チ。」と舌打ちして受話器を取り、さきほどの「チ。」とは似つかわしくない明るい声で受話器をあげた。「こんばんわー…」
わたしは、くわばらくわばら、と胸のうちで唱えて箸を進めた。
そのうちに独裁者は「ありがとうございました。はい、おやすみ。」と言うと受話器をさげて「チ。」と舌打ちした。そして、ひとりごとのような、でもわたしにも聴こえる程度の音量でおばさまの悪口をつぶやいて戻ってくる。そして、席についた。
「いま泥棒と猿が流行ってるみたいよ。昨日、うちの近くで見たらしい。」
独裁者はさきほどの「チ。」の延長上の声音でそうつぶやいた。
泥棒と、猿が、流行って、いる?うん?
そう思った。些か感染症のような言い分に疑問を呈したかったけど、どーこー言うとこちらへ悪意の火種が飛び移るやもしれぬ。くわばら、くわばら。わたしはテキトーに返事をしてご飯をいただいた。
𓂅𓎩
そのことが頭を過ぎった。すると、またズドン!と音がした。
流行りの泥棒か、それとも猿か、どちらか判断はつかない。こんなときに乙女の悲鳴でもあげればかわいいのだけれど、わたしはどうしてか、こういう窮地に強い。
以前、仕事帰りに目の焦点が不安定で呂律が回らない明らかにシャブ中の人からナンパされたことがある。わたしは無視して歩き続けたら斜め後ろから「いい匂いらんなー。」とか「おねーしゃん、いこっ。」とか「いいんだろー?」とか砕けた喋り方でついてくる。このままではどこまでもついてくるし、この先は人通りが少なくなるから危険だと判断した。わたしは立ち止まり、後ろを振り返った。そして、白目を剥いて口を大きく開け「ピャー!」と叫んだ。それを何回も続けた。白目を戻して無表情になったり、また白目を剥いたりを繰り返しながら「ピャー!」と叫び続けた。ピャーピャー叫ぶおんなと、たじろぎ後退りするシャブ中。周りは驚いただろうが、こちらはいのちがかかっていた。「な、な、なんらーん。」とシャブ中は驚いて走って逃げた。わたしは無表情で踵を返し、帰路へ向いておもいきり走った。
目には目を、歯には歯を、クレイジーにはクレイジーを。
わたしはハンムラビ法典に従った。受けた害に対して同等の仕打ちで報いるのだ。紀元前18世紀のバビロニアの王のハンムラビ氏に感謝。
そんなことがあった。肝の据わったわたしだからできたことであり、とても危険なので良い子のみんなは真似しないでほしい。
だから、わたしは裏でズドン!と音がしたとて、あまり動じない。わたしは手に布巾を巻きつけてお酢が入っていた空の瓶を片手に持ち、忍者走りで裏へ向かった。
ドアをビュンと開けると、猿がいた。「え?」みたいな驚いた顔で、そして、すぐに走って逃げた。わたしは、あのときのように白目は剥いていなかったけど、猿は逃げた。
わたしは、ドアを閉めて何事もなかったかのように台所へ戻った。猿でよかった。
それからコーヒーを飲んだあとに服を着替えて買い物へ行った。
今日のメニューはハンバーグとじゃがいものピュレである。
サイコーのタッグ。阿吽の呼吸。
わたしは買い物を終えて帰るとすぐ手を洗った。ゴム手袋をして料理にとりかかる。
まずはピュレから。じゃがいも2個の皮を剥きさいの目に切り鍋へ水と塩を入れて茹でる。
じゃがいもが茹であがるまでにハンバーグの下拵えをする。みじん切りにした生の玉ねぎと牛と豚の合い挽き肉をボールへ入れ、そこへオリーブオイルとたまご1個とパン粉と牛乳、塩、胡椒を少々入れて混ぜ合わせる。丁寧に混ぜて馴染んだら、ハンバーグを厚めに成形して焼く。
じゃがいもが茹であがれば、テンポ良く笊へとり、裏ごしする。そして、鍋へ戻して水分を飛ばす。その間もハンバーグを裏返して酒を少々回し入れ蓋をして蒸し焼きにする。じゃがいもにバターと牛乳とパルメザンチーズを少しずつ入れ混ぜ合わせる。ハンバーグが焼けると少し脂を拭き取り水を入れ、市販のビーフシチューの素を入れて煮込む。
ピュレとハンバーグのソースにとろみが出たら火を止める。ハンバーグをお皿に据えソースをかける。そして、ピュレを添える。できあがり。
わたしはスーパーのグリーンサラダとご飯とパン屋のバケットを置いて、すかさず「いただきます。」と手を合わせていただいた。
厚めのハンバーグへナイフとフォークで入刀。するんと切れて、ひと口いただく。
うんっっっま。うまうま。ビーフシチューの素が普遍を編んでいる。何時間も煮込んだようなソースの味は深い。ここは極楽か、かの桃源郷か。至福を通り越して鼻血。
そして、ピュレをいただく。
やっっっさし。ほんのりパルメザンチーズの風味がナイスですね。母性を体現したような包容力。後光が差してる。
わたしは無心に食べた。ご飯を食べて、そのあとにバケットにソースをつけていただく。おーそれみーよー!
刹那に消えゆくハンバーグとじゃがいものピュレ。
この瞬間を腕にタトゥーしたい。
わたしは、この瞬間のために生きている。じぶんが食べたいときに食べたいものをいただけることに感謝をした。そして、ハンバーグとピュレを胸に灼きつけた。
からっぽのお皿を前に「ごちそうさまでした。」と手を合わせた。
そのあとに食器や調理器具を片付けた。独裁者にバレると厄介なのできっちりと元あった場所へぴたりと戻す。
歯を磨いて本を読んでいたら夕方になっていた。すると、独裁者の車が庭の砂利をつぶす音が聴こえた。わたしは慌ててテレビをつけて寝ているふりをした。
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