見出し画像

何かちょっとわかってきた、生きにくさの正体

人類がハングリー・モードで駆け抜けてきたこれまでの時代を「ハングリー・モチベーションの時代」と名付けるとすれば、「実存的な問い」が近年増えてきているのは、この「ハングリー・モチベーション」の時代が、静かに終焉に向かいつつある兆候なのではないかと考えられるのです。

「仕事なんか生きがいにするな」はじめに

何となく感じている生きにくさ。
ずっとその正体がわからないまま生きてきた感じがある。

食べにくい、着にくい、話しにくいなど「〜にくい」という言葉は色々あるけど、そこには「うまく言えないけど、何か違う」という違和感や、「もっとこうあって欲しい」という願いみたいなものがあるように思う。

とりあえず食うに困らないだけの収入があり、雨風をしのげる家があり、それなりにやりがいを感じる仕事があり、たまに飲んだり遊んだりする仲間もいる。長年独身貴族(死語?)ではあるけれど、結婚したからといって、何となく生きにくい感じが霧消するとも思えない。

生きにくなあと思っていると、自然と
生きる意味って何なんだろう?と考えてしまう。

仕事やプライベートで何やかやと忙しくしているときは考えないけど、ポッカリと空いた時間の虚空で、ふと頭をもたげてくる。

自分なりに考えたり本を読んだりしてその答えを探してきたけど、結局何だかよくわからないまま、見て見ぬふりをしてきた。歯医者に行くほどではない軽い歯の痛みのように。

この本の著者である泉谷閑示さんは、そもそも「意味」と「意義」を取り違えて考えていることが問題だと言う。

現代に生きる私たちは、何かをするに際して、つい、それが「やる価値があるかどうか」を考えてしまう傾向があります。このような、「価値」があるならばやる、なければやらないという考え方に、「意義」という言葉は密接に関わっています。

同 第3章

お金になること、仕事の役に立つこと、スキルが身につくこと。子どもですら「有意義な夏休みを過ごしましょう」などと教育されて、われわれは一種の「有意義病」にかかっているのではないか。

確かに、何かちょっと面白そうと思ったことも、つい「わざわざやる意味ないか」と思ってしまい、せっかくの自分の興味や関心にフタをしてしまうことはよくありそうだ。

今さら何を始めたところでプロになれるわけでもないし、そんな時間があるなら資格の勉強でもしておいたほうが役に立つかなとか。それはまさに有意義病なのかもしれない。

一方で、「意味」というのはちょっと違うらしい。役に立つとか、価値があるとかとは無関係に、ひたすら主観的で感覚的な満足を指す。お金にならなくても、仕事の役に立たなくても、人に自慢できなくても、一向に構わないのだ。

子どもの頃は、それが何の役に立つかなど考えず、日が暮れるまで夢中で遊んでいた。それが野球だったりサッカーだったり、ドロケイだったり木をよじ登ることだったり、山の中を探検することだったり。友だちと遊ぶことが楽しいから、遊んでいた。

川で見つけた小さな蛙がどうしても気になり、友だちと別れたあとに一人で探しに行ったこともあったっけ。カマキリの卵を家に持って帰って、大変なことになったこともあったなあ。衛生面などまったく気にせず、ヘビイチゴを食べたりツツジの花の蜜を嬉々として吸っていた。

あの頃は生きる意味なんて考えてなかったけど、振り返ってみると、限りなく生きていたように思う。

「本当の自分」を生きるということは、つまりはこのような自分自身の在り方に戻る、あるいは脱け出ることだと言えるでしょう。「本当の自分」というものは、どこか外に待ち受けていてくれるものではなく、自分の内部を、「心=身体」を中心にした生き物として自然な在り方に戻すことによって達成されるのです。

「仕事なんか生きがいにするな」第3章

大人になるにつれ「頭」が育ち、何の役にも立たなそうな時間が日常から削られていく。有意義な時間を過ごせないと、怠惰な自分を責め、「心=身体」を傷つける。結果として生きる意味を感じられないという負のループに陥ってしまう。

この本で通底しているのは、「頭」と「心=身体」という人間が持つ二面性だと思う。

役に立つかどうか、損か得かという「意義」を考える「頭」。心地よいか不快か、楽しいか楽しくないか、ワクワクするか気が滅入るかという感覚や感情を味わう「心=身体」。

両者が反発し合うことなく、協働できるようになると、人間らしく生きることができるという。

身を粉にして働いてたくさん稼ぐ。そうすれば好きなものを好きなだけ消費できますよ。ほら、幸せでしょ?

そういう資本主義的な価値観に絡め取られた「頭」中心でいくら頑張ったところで、その先に待っているのは「自分の人生はいったい何だったのか」と悩む中年の危機。はい、私です。

本来主人であるはずの「心=身体」をないがしろにしてしまった結果、「本当の自分」がわからなくなり、生きる意味とか考えちゃう。考えてもわからないから、仕方なしに目の前にあるスマホで時間をつぶす。

人々は一向に「労働する動物」状態から解放されることなく、むしろあべこべにIT機器の奴隷のように長時間「労働」に従事させられているという、かなり本末転倒な状況に陥っているのです。

「仕事なんか生きがいにするな」第2章

科学がこれだけ発展して、いったいいつになったら仕事をしなくていい時代がくるのかなあ…とよく考えてしまうけど、常に右肩上がりの成果が求められる世界では、「働かざる者食うべからず」という価値観が簡単に押し通ってしまう。

ボーっとしたまま、特に何もしない休日を過ごしたときに感じる罪悪感は、「頭」が「心=身体」をしばき倒しているからかもしれない。何だか自分が可哀想になってきた。

ただ、「仕事」自体を否定しているわけではなくて、どこの誰が決めたかわからない職業という「既存の選択肢」の中で、自分らしさとか自己実現とか、それこそ生きる意味を求めてしまうのが間違いだと。

「心=身体」というのは、「受動的で隷属的なこと」を良しとしない、もっと能動的で創造的な存在なんだと。

だから、誰かが決めた職業という枠の中で、受動的に「労働」するだけでは、心から満足することはできない。「労働」の中に能動性と創造性を取り戻し、自分としての「意味」が感じられるものにしていく必要があるんだと。

とは言え、長年「意義」に縛られ「頭」の言うなりになってきた身としては、能動性とか創造性とか、何だか難しい。

ビシネス書などではよく「仕事を自分ごと化しよう」とか言う。その通りだとも思う反面、自分の本当の本音とはやはりどこかズレていて、社会に問題なく適応してますよ、会社の期待通りの成果を出せる人間ですよ、面倒なことを言い出さずに上司の思いを汲み取って円滑に動くことができますよ。

そんなことを上っ面で主張しているだけの自分が垣間見えてしまう。

人は「主体性」を奪われたままで、自力で人生に「意味」を見出すことは原理的に難しいものです。まずは、人生の「意味」を求める前に、「意味」を感知できる主体、すなわち「自我」を復活させることから始めなければなりません。

「仕事なんか生きがいにするな」第1章

どうやらいきなり「意味」を求めてもダメらしい。そもそも「意味」を感知するはずの主体が鈍っている状態だから、まずはその感度を取り戻しましょうと。ここではその主体を「自我」と表現しているけど、「心=身体」と置き換えてもいいと思う。

そして、その「自我」なり「心=身体」を復活させるためには、「日常に『遊び』を取り戻す」ことが大切だと著者は説いている。

色あせたニュアンスをまとった「日常」というものをいかに非日常化して、区別なく味わい深いものにできるか。つまり、人生の時間を丸ごと「遊ぶ」ことができるかが、問われてくるのです。

同 第5章

ニーチェは人間の最も成熟した在り方を「小児」という象徴で語りました。この「小児」とは「創造という遊戯」に満ちた存在です。創造こそが最高の遊戯であり、「遊ぶ」とはすなわち創造的であることです。物事を深く「味わう」ためには、その物事に向かって「小児」のように創造的に「遊ぶ」ことが大切なのです。

同 第5章

「遊ぶ」という言葉から連想されるイメージは人それぞれだと思うけど、「創造的に遊ぶ」という視点は、これまで決定的に欠落していたなあと思う。

絵を描いたり何かを工作したり、学校の授業以外で、それこそ「能動的に」取り組んだ経験は皆無かもしれない。

昔から「いつか本を書けたらいいな」なんてぼんやり思っていたけど、それを具体的な行動に起こすこともなく月日だけが流れてきた。「創造的に遊ぶ」ことが「生きる意味」を感じるために大切なことだとしたら、とんでもなくもったいない時間を過ごしてきてしまったことになるなあ。

ちなみにこの本では、創造的な遊びのおすすめとして「料理」を挙げている。

食への態度は、その人の人生への態度を反映しているものなので、もし食事が仕方なしにこなす義務のようになっているとすれば、それはすなわち、生き方自体が「仕方なしにこなす」ようなものになっていることを表していると考えられるのです。

同 第5章

さすがに言い過ぎな感じもするけど、「仕方なしにこなす」というのは、生活の色々な場面で感じている感情かもしれない。家事全般そうだし、仕事も割と多くの場面でそう感じている気がする。

ともすると大切な存在であるはずの友人や家族と会うことすらも、どこかで面倒臭さを感じ、とりあえずの関係性を保つために、会話したり飲みに行ったり遊びに行ったりすることを、「仕方なしに」こなしているのかもしれない。

逆に言えば、物事の多くを「深く味わう」ことができていない。そう考えると、全く言い過ぎではない気がしてくる。

何かに対して深く関心を抱くということは、幼い子供のように、そのものの性質を知りたがり、そのカラクリを明らかにしたいと願い、最終的にはそれを自分で作り出したりしたくなるものです。これぞまさに「小児」が「熱中して遊ぶ」姿であり、生きることを「味わう」ことなのです。

同 第5章

最近だいぶご無沙汰になってしまったけど、一時水泳にハマった時期があった。

はじめは単なる運動不足解消の手段でしかなかった水泳。プールサイドでボーッと他の人たちの泳ぎを眺めていたとき、同じクロールでも泳ぎ方が人によってまったく違うことにふと気がついた。

派手な水しぶきをあげてパワフルに泳ぐ人、息継ぎもやっとで見ているこっちが心配になる泳ぎの人。スイミング・スクールの仲間たちとワイワイ楽しみながら泳ぐ人たちもいる。

その中でも僕の目を引いたのが、まったく力みを感じさせず、ゆった〜りと、優雅に泳いでいる人。日当たりの良い縁側でお茶を飲んでいるかのような穏やかさだ。

「どうすればあんなに美しく泳げるんだろう?」

そこから、試行錯誤しながら自分の泳ぎを分析し、Youtubeの水泳ノウハウ動画を見まくった。

雪の中でもプールへ通い続け、少ない利用客の中でついに自分と監視員のお兄さん2人きりの状態になっても、構わず練習を繰り返した。お兄さんはたぶん「こいつがいなければ休憩できるのに」とか思っていたかもしれないが、ごめんよお兄さん、僕はそのとき、それどころではなかったのだ。まさに夢中だった。

何かに対して深く関心を抱く。
著者はそれを「愛」だと言う。

愛とは、相手(対象)が相手らしく幸せになることを喜ぶ気持ちである。欲望とは、相手(対象)がこちらの思い通りになることを強要する気持ちである。

同 第4章

愛。

大事そうだけど、何だか気恥ずかしく、日常で使うことはあまりない言葉。ここでは、人に対する愛だけではなく、「対象」にも触れられているのがミソかなと思う。

こちらの都合がいいようにコントロールしようとせず、そのもの自体に深く関心を抱く。それは自分自身に対しても言えるのかもしれない。

「心=身体」が感じた違和感を無視して、ひたすら社会や会社に適応しようと頑張り続けても、生きる意味を感じることはできない。

適応するだけの人生。
こなすだけの人生。

うっかりそうなりやすい世の中だからこそ、その現状にまず気づく。そして、

もっと自分に素直に正直に。

創造的な遊びを通して日常を深く味わう。
萎縮してしまっている遊び心や好奇心を少しずつ取り戻す。

その先に生きる意味が感じられるんだよ。

そんなことを教えてくれる、とても良い本デシタ。

いいなと思ったら応援しよう!

この記事が参加している募集