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私達は鎖のひとつ。つなげていくことに存在意義がある。

ロッシーです。

「自分の存在意義というのは、何なんだろう?」

とたまに考えることがあります。

もちろん、確固たる答えは出ません。

ただ、なんとなくボヤっと感じるのは、

「つなげていくことが存在意義なのかもなぁ」

ということです。


自分の存在が不要になることが存在意義

なんでそんなことを思うようになったのかというと、子育てという経験が一番大きいように思います。

子育ての最終的なゴールは、

「子供が成長して、自分という親の存在がなくても生きていけるようになること。」

だと思います。

つまり、「自分の存在が必要ではなくなること」がゴールになるわけです。

「自分の存在が不要になることが存在意義」

それが「つなげること」なのだと思うのです。

仕事も同じこと

よくよく考えると、仕事も同じで、「つなげること」がゴールなんですよね。

私が今やっている仕事だって、いつまでも続けるわけにはいきません。

どこかのタイミングで、後任者に任せていくことが必要になります。

後任者がきちんと私の代わりに仕事を担うことができるようになれば、もう私の存在意義はありません。

でも、それでいいわけです。

私は私で、また別の何かを見つければいいのです。別の世界では、今度は私が後任者になるのかもしれません。

私達は鎖のひとつ

そんな風にして、「つなげていくこと」で、世界は回っているのかもしれません。

例えるなら、どこまでも続くながーい鎖があって、自分はその先端の輪っかのようなものです。

自分の次の輪っかを育てて、輪っかをつなげれば自分の役割は終わりです。次の輪っかは、またその次の輪っかを育てて「つなげていく」のでしょう。

「つなげていくこと」が存在意義だとすると、次の輪っかにつなげようとしないことは、非常に不自然なことなのだと思います。

鎖のひとつであることを拒否する人

・自分の代で鎖を終わらせる人

・次の輪っかにつなげようとしない人

そういう人もいます。

もちろん、それも個人の自由です。

でも、おそらくそういう行動はとても不自然なことなのかもしれません。

これまでに沢山の先人がつなげてきた鎖があり、自分がそのうちのひとつなのだとすると、

「私の自由なんだから、ここで鎖は終わりにします。」

とするのは、ためらいを感じます。

輪っかのひとつだけが優れていても意味がない

つなげていくことが存在意義であり、その鎖の輪っかのひとつが私だとすると、私が強いとか、優れているとか、そういうことにはそれほど意味がないように思います。

大事なのは、鎖としてつなげていくことであり、鎖の無数の輪っかのひとつが強かろうが優れていようが、あまり関係ないように思うからです。

だとすれば、弱くても、劣っていても、とにかく鎖をつなげた人のほうが、存在意義を果たしたと言えるのかもしれません。

最後に

私自身、若い頃は、とにかく自分が優秀であろう、強くなろうとしてきました。

仕事で手柄を立てたかったですし、認められたかったですし、バリバリと頑張っていました。

でも、今はそういう気持ちは、昔ほどはありません(もちろんゼロではありませんが)。

「俺が、俺が。」という気持ちは少なくなりましたね。

それよりも、自分が次世代に何を残せるのか、そういうことのほうに興味があります。

もちろん、若い頃が間違っていたというわけではありません。

若い頃はやる気も功名心もあるのが当然ですから、それはそれで自然なことなのです。

でも、だんだんとそういうものが少なくなっていくのも自然なことで、今はつなげていくことに関心があるのです。

人というのは、年を重ねるにつれて、考え方が変わっていくんだなぁと、勝手に面白がっています。

皆さんも、自分がなにをつなげられるのか、そういうことに少しでも思いを馳せていただければ幸いです。

Thank you for reading !


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