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情報に対してすぐに反応しないこと〜『あいまいさに耐える』

◆佐藤卓己著『あいまいさに耐える ──ネガティブ・リテラシーのすすめ』
出版社:岩波書店
発売時期:2024年8月

「ネガティブ・リテラシー」とは「あいまいな情報に耐える力」をいいます。真偽を即断できない情報をやり過ごし不用意に発信しないこと。フローベールは愚か者を「すぐに結論を出したがる者」と定義しましたが、それに通じる能力といえましょうか。

帚木蓬生の『ネガティブ・ケイパビリティ』が話題になって以降、「ネガティブ〜」の効用を説く本がよく目につくようになりましたが、本書もその系譜に連なる本といっていいでしょう。実際、後半では帚木本にも言及しています。著者の佐藤卓己はメディア文化学の研究者。

ネガティブ・リテラシーを論じるにあたって、佐藤が〈世論/輿論〉の区別を明確にするのは、かねてからの持論です。端的にいえば、世論とは「世間の空気」、輿論とは「個人の意見に基づく」ものと考えます。たとえば「突然かかってくる電話で即答された『世論』はときどきの国民感情ではあっても、政治的意見とよべるものではない」と見做します。そのうえで、世論(空気)を批判する足場として輿論(意見)を取り戻すことを提唱するわけです。

ちなみに佐藤の〈世論/輿論〉に関する考察は、政治学における熟議民主主義理論にもつながる議論でしょう。本書が輿論復興の可能性を探る社会実験として紹介している討論型世論調査は、熟議民主主義を研究する政治学者ジェームズ・フィシキンが提案したものです。

当然ながら〈世論/輿論〉の二分法に対してはさまざまな異論が提起されてきました。本書では社会学者の佐藤俊樹の批判について直接応えているのは注目に値します。現代社会のコミュニケーションシステムにおいて理性的討議による輿論形成など不可能ではないのかという疑義です。世論より輿論が優れているわけではなく、世論こそが輿論の基盤であり、世論がなくては輿論も成立しないというのです。
これに対して著者は「全き正論」であると認めたうえで、「世論/輿論」の峻別をなお必要と考え、それを一つの理想型モデルとして再構築しています。

それに関連して、もう一点私が気になったのは、感情や情動を意見の劣位におく本書の基本認識についてです。現代社会の問題は知性の劣化ではなく感情の劣化だと言ったのは宮台真司でした。それは社会学の最新の知見に基づくものですが、本書の基本認識とは相容れません。著者はどのように反論するのでしょうか。

またデモに関する議論も、私には今ひとつ説得力を感じることはできません。反原発デモを積極的に肯定した柄谷行人や高橋源一郎の言説に対して、ナチ党のデモの例を引きながら「デモは革命にも反革命にも利用可能」というありふれた一般論で批判しているのです。
腐敗した政治を現実に変革しようという時、この著者が拠って立つ高みの見物的な「メディア文化学」なる学問はいかなる貢献が可能なのでしょうか。あるいはそれは埒外の問題だとして無視を決め込むのでしょうか。

そのような疑問点が残るにせよ、現代の風潮を考えれば、本書が説くリテラシーそのものには賛同するにやぶさかではありません。断片的なニュース一本だけで先走ってあ〜だこ〜だと得手勝手な議論を始めることが一般化した時代には、なるほど「ネガティブ・リテラシー」が重要になってくるでしょう。

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