あの頃はみんなファシストだった!?〜『文学者とは何か』
◆安部公房、三島由紀夫、大江健三郎著『文学者とは何か』
出版社:中央公論新社
発売時期:2024年12月
文学者とは何か。長編小説と短編小説はどう違うのか。文学と政治の関係はどうあるべきか──。国際的にも評価されていた文学者三人による鼎談、総当たりの対談5篇を収めています。
1958年から1990年にかけて文芸誌に掲載されたもので、今よりも文学が熱かった時代の記録です。開巻早々、サルトル作品の主人公をめぐって「男らしい」という言葉が大江の口から発せられ、三島もその言葉で応じているのには時代を感じますが、そうした点を含めて大変興味深く読みました。
ファシズムをめぐる三者の鼎談は、良くも悪しくも文学的諧謔を感じさせる内容です。「ファシストという概念を日本の文学で思い浮かべれば、三島由紀夫だ」と大江が挑発すれば、大江文学もまたファシズムムードを醸し出すと三島がやり返します。むろんここでの「ファシズム」は一種独特のニュアンスを帯びていて、「ファシズムの一番の特徴は政治を美的に考えること」(三島)という認識がベースになっています。
日常性をめぐる議論も興味深い。大江が日常性の仮面をかぶった異常をうまく書くことを目指しているのに対して、三島は日常性に軽蔑的な意味しか認めず、「小市民的なロマンティシズム」と批判する場面は印象的。それでも両者が決定的なすれ違いに至ることなく和気藹々のうちにお開きになるのですから大人の会話というべきなのでしょう。
大江と安部の対談では、長編と短編の相違が話題にのぼっています。「短編は走っている車のバックミラーみたいなもので、長編は車を降りて考えたあとの仕事」という大江の比喩がおもしろい。「それ自身運動していながら適確に動いている人間をとらえることができる」という意味で「短編作家はとくに政治に左右されることが少なくてすむのじゃないか」と続きます。それを受けて「文学の政治参加は簡単だが政治が真剣に文学に参加してこそ政治も生きる」という安部の箴言も味わい深い。
安部と三島の対論では、行動と言語の関係をめぐってスリリングな議論が交わされます。「行動も言語によってはじめて行動になる」という安部の発言に「見ることも行動の一部」と三島が受けているのはいかにも文学者らしいやりとりだと感じます。
文学観も思想も異なる三人ですが、本書全体から相互に尊重しあっていた様子はよく伝わってきました。「つい数十年前、文学のエネルギーがこうした対話から生まれていた時代があったのだと少なからぬ感慨をおぼえる」と解説の阿部公彦は記しています。その思いを私も共有します。