悪と全体主義_Fotor

不安な大衆が安住の世界観を求める危うさ〜『悪と全体主義』

◆仲正昌樹著『悪と全体主義 ハンナ・アーレントから考える』
出版社:NHK出版
発売時期:2018年4月

どうも世の中全体がきな臭くなってきました。排外主義や強権的政治手法が世界のあちらこちらで見られるようになり波紋を呼んでいます。そのような世界的な思潮にいかに向き合うべきなのか。
仲正昌樹は一つのヒントとしてハンナ・アーレントを提示します。ナチスによるユダヤ人大量虐殺の問題に取り組み、全体主義の構造を歴史的に解き明かそうとした稀代の哲学者。本書では彼女の著作のなかから主に『全体主義の起原』と『エルサレムのアイヒマン』を取り上げ、アーレントが析出した全体主義のメカニズムについて読み取っていきます。

本書にいう全体主義とはもっぱらナチス・ドイツ時代の政治動向を指します。それは反ユダヤ主義と一体のものでした。

アーレントは、ナチス時代の全体主義の構造を考察するにあたってヒトラーやホローコーストで重要な任務を担ったアイヒマンの特殊性ではなく、むしろ社会のなかで拠りどころを失った大衆のメンタリティに着目しました。現実世界の不安に耐えられなくなった大衆が安住できる世界観を求め、吸い寄せられていく──その過程をアーレントは全体主義の起原として重視したのです。

とりわけアーレントの考察の非凡なところは、そもそも近代の国民国家のなかに差別感情を生み出す構造を見てとったことです。「まさに国民国家がその発展の頂点においてユダヤ人に法律上の同権を与えたという事実のなかには、すでに奇妙な矛盾がひそんでいた」と。
どういうことでしょうか。

 ……なぜなら国民国家という政治体が他のすべての政治体と異なるところはまさに、その国家の構成員になる資格として国民的出自が、また、その住民全体の在り方として同質性が、決定的に重視されることにあったからである。(p42)

かつては「外」にあって憎悪の対象だったユダヤ人は、国民国家が形成される過程で「内」なる異分子となりました。ユダヤ人を「内」に取り込むことが、実は先鋭的なユダヤ人「排除」の序曲となっていたのです。

さらに、帝国主義が「人種」という概念を生み出したこともアーレントは指摘しています。具体的に南アフリカにおけるオランダ人とイギリス人の覇権争いにからめて論じているのは説得的です。南アフリカの支配権を握っていたオランダ人(ボーア人)は「人種」という概念にみずからの正当性をみようとしたのです。

 ……危機的状況に追い込まれたボーア人が「非常手段」として生み出したのが「人種」思想だったとアーレントは考察しました。つまり、同じ人間の姿はしているけれど、我々=白人と、彼ら=黒人は「種」が違う。その違いに優劣の価値観を持ち込み、劣等な野性には暴力をもって対峙するほかない、と考えたわけです。(p73)

国民国家という枠組みから展開された近代の帝国主義には最初から無理があったと、アーレントはいいます。

アーレントの考えによれば、「他者」との対比を通して強化される「同一性」の論理が「国民国家」を形成し、それをベースとした「資本主義」の発達が版図拡大の「帝国主義」政策へとつながり、その先に生まれたのが全体主義──ということになります。

本格的な全体主義の形成に際しては、最初に記したように「大衆」が一つのキーワードになります。かつてはそれぞれの階級におさまっていた人々が大衆となって巷にあふれ出す。拠りどころを失った大衆に強く働きかけたのが「世界観」です。ドイツの場合「ユダヤ人が世界を支配しようとしている」という虚構の物語に基づく世界観で大衆をひきつけていきました。このような世界観に立脚した国体はつねに手を加え続けなければ権力を維持できません。それはおのずと「運動」となります。アーレントによれば全体主義とは「運動」にほかなりません。

ナチスの全体主義支配で、議論によって人々が結びつく公的領域が崩壊すると、人々はますますプロパガンダのわかりやすい言葉に反応しやすくなります。そこでは時として道徳的人格が解体されていくこともありえます。その典型的な実例がアイヒマン裁判によって明らかになりました。

元ナチス親衛隊中佐アドルフ・アイヒマンは、ユダヤ人虐殺の実務を取り仕切った人物。戦後しばらくたった後、潜伏先のアルゼンチンで捕らえられイスラエルで裁かれることになりました。アーレントはその裁判を傍聴して『エルサレムのアイヒマン』を著します。

アイヒマンには「特筆すべき残忍さも、狂気も、ユダヤ人に対する滾るような憎しみもなかった」とアーレントは指摘しました。たまたま与えられた仕事を熱心にこなしただけの平凡な官僚にすぎなかった、と。

この著作でアーレントはユダヤ人の同胞から多くの批判を浴び、実際、多くの友人を失いました。
しかしながらアーレントが提起した「悪の凡庸さ」という概念は今なお多くの研究者によって引用されています。アイヒマンのような官僚を生み出してしまった社会構造やプロセスを冷静に見ようとした彼女の考察に多くの人が価値を見出しているからにほかなりません。

アーレントは分かりやすい政治思想や、分かったつもりにさせる政治思想を拒絶し、根気強く討議しつづけることの重要性を説きました。全体主義に対抗するための概念として複数性を重視したのはそのためでもあるでしょう。

 アーレントが複数性にこだわっていたのは、それが全体主義の急所だからです。複数性が担保されている状況では、全体主義はうまく機能しません。だからこそ、全体主義は絶対的な「悪」を設定することで複数性を破壊し、人間から「考える」という営みを奪うのです。(p189)

複数性に耐えること。対立意見に耳を傾けること。言うは易く行うは難し、かもしれません。しかし過去の失敗を繰り返さないための簡便な処方箋などありはしません。アーレントの深い洞察は現代にあっても私たちの思考を煌々と照らし続けているというべきでしょう。

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