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「自分の時計」を持って、近所のポストに手紙を出しに行く

数日前、一通の手紙を出そうと、家を出た。一番近いポストは、自宅の前の坂を昇って、出た道路を20mほど歩いた先にある。
しかし、ぎらぎらと太陽が肌に痛く、全身を包む湿気。ちょっとそこまで、という用事ですら外に出るには気合がいる。

何十年も住んでいる場所、何千回、いや何万回歩いたかわからない道である。
坂を昇っていくとき、ふっと甘いねっとりするような香りを一瞬感じた。
葛の花だろう、と思った。どこに植わっているのか?と見まわしたが、見当たらない。

手紙は事務的なものだが、一日でも速く処理してもらいたく、そのためにはこちらの記入に間違いがあってはならなかった。しかし投函、帰宅してすぐに、一か所、基本的な情報を空欄のままにしていたことに気づいた。家族の西暦の生年。自分でも嫌になるが、未だに高齢の家族それぞれの生年月日が突然思いだせなくなる時があり(和暦はわかっていたりする)、最後に調べようと思って、空欄にしたまま忘れて封をしてしまったのだ。間抜けなミスと、暑い中、出ていったことが重なり、いらだちは二倍になった。
しばらく考えた後、昔ながらの解決方法に至る。即ち、ポストの回収時間あたりにそこへ行き、ポストを開ける郵便局員に直にお願いして、返却してもらうということ。過去に何回かやったことがあるが、個人情報やら、身分証明を求められることが多くなった現在、そういうことが可能なのかはわからない。とにかく、やってみることにした。
回収時刻の15分ほど前に、万一求められた場合を考えて、その手紙に書かれた宛名と差出人名と一致する書面を持って、再びポストへ向かう。
しかし今度は、帽子と今読みかけの小説本を持っていった。
道路を挟んでポストの向かいには、自分が通った小学校の正門がある。その時間は人気がなかった。最初は門の傍に立っていたが、不審者だと思われないように、少し外側にずれた。門の中と外には大きな桜の樹が何本か植えられていて、ところどころ光がまだらに入った葉陰の下に立つと、持ってきた本を開いて、読みだした。ここからは持久戦である。

すぐにその本の世界、半世紀ほど前のトルコのある村へ飛び、初恋を体験中の少年が、恋した少女の面影を求めてさ迷い歩く夜の街の中、彼と共にうろつき始めた。少女を見つけたレストランの中に入っていき、彼女の不思議な微笑みに惹きつけられながら、何も言えずにそこを出て、肉体労働のアルバイトをしている夜の山に向かって登っていく。彼と二人、満天の星を見ながら。

そうやって、ここ日本で、暑さ極まる真昼間、しんと静まり返った小学校の正門に立ち、ひとり、別の世界にいた。これが「読書」という魔法である。
背後から、つまり小学校の中から、若い男性が出てきて、ポストの脇にある自販機で飲み物を買った。恰好からして、何かスポーツ活動をやっているらしい。一瞬私をけげんな目で見たようだ。本を読んでいるのを見て無害と判断しただろう(そういう意味でも本というのは役立つ)、また学校の中に戻っていった。
その後、彼が飲みおえて、また容器を自販機の傍のごみ箱に捨てにきたときも、私はまだ読んでいた。

回収時刻を15分過ぎていた。ここまで来たら、絶対に見逃すわけにはいかない。
それは突然だった。目の前に赤い小型のバンが停まった。60代後半くらいの中肉中背、薄い白髪、眼鏡をかけた男性が出てきた。
慌てて、開いた頁に赤い栞の紐を挟み、本を閉じると、駆け寄り、恐る恐る要件を伝えた。その人は一瞬驚いたようだが、仕事柄やはりこういうことには慣れているのだろう、ポストの扉を途中まで開いたまま、私に中を見せないように、「何て名前ですか?」と聞いた。私は差出人の名前を言った。それはちょっと普通は読めない名字であるため、本当にわかるのだろうか?と疑問を感じながら。
すると、ああ、これですね、と、さっと取り出して、渡してくれた。
おそらく一番上に載っていたのだろう。拍子抜けするほどあっさりと終わった。その人が回収袋を持って、車へ向かうのをちらっと見ながら、来た道を戻る。その回収袋は一瞬目を疑うほど、小さく軽く見えた。郵便というものに、長くお世話になり、その生身の人間の手から手へと渡されていく昔ながらの制度や、切手など、あらゆる要素に文化を見る私は、昨今の郵便局事業の苦戦にひそかに心を痛めているので、この時も一瞬不安を感じた。

自宅に戻り、一度糊で封をした封筒を慎重に開けて(これはいつも生理的に嫌な行為である)、問題の箇所を記入すると、また戻してセロテープで封をした。誰かが不正に開封したように思われないだろうか?いや、こういうことはよくあることだ、と思ったりしながら、またすぐにポストに向かう。一日に二回しかない回収時間、今度こそは逃すまい。

投函したその時、突然、ポストの裏の方から、一羽の揚羽蝶がひらひらと舞い上がった。はっと驚いて、その姿を見送った。
そのまま、数メートル歩いていくと、また突然、顔の前に揚羽蝶が現れた。ほとんど顔に当たらんばかりに。先ほどと同じ蝶だろうか?今は蝶が羽化する時期らしく、よく見かける。
それは、ひらり、ひらり、どこかたよりなく、しかし、楽しんでいるかのようにあたりを飛び回る。ああ、これは羽化したばかりの若い蝶なのだな、と思った。
どこへ行こうというのでもない。飛ぶ練習をしている。自分の羽の力を試しながら、飛べるのだ!飛んでいるのだ!と喜びにあふれている。

しばらく蝶を見た後、自宅前の短い坂道を降りていく。
すると、またふっと、甘い香りが漂った。今度こそ香りのもとを確かめようと注意深く見渡すと、すぐ頭上の左手にその家の入口に植えられた金柑の樹、黄色い実と、その周囲に白い小さな花がたくさん咲いている。金柑の花の香りだったのだ。オレンジ、甘夏、蜜柑など、柑橘類の花の香りは、その小さな素朴な花からは意外なほど鮮烈である。エジプトの砂漠の中で泊まったホテルの庭園に満ちていたオレンジの花の香りは、一生忘れられない。

そして最後に発見したのが、下記の絵に描いたコンクリート壁の穴から、あふれ出た名も知れない多彩な植物である。
自宅の目と鼻の先に、こんな風にいつのまにか育っていた。

風の力に乗って住処を見つけた種たちが、誰の力も借りず、このように自らを育て、出現することの奇跡。
そんなもの当たり前だろう。ただの雑草に何を驚いているのか。
人は言うだろう。だが、雑草たち、道端の小さな花に驚かずにはいられない。

こういう小さな発見に立ち止まっている私に、何を見ているのだろう?と通りがかりの人が注目する。そんなことがたまにある。

こうして不快な暑さの中、ポストへの道を三回も往復した。
費やした時間は計30分ほどだろうか。だが本当に数えようとは思わない。

葉桜の陰でトルコへ旅して、郵便屋さんと交渉して手紙を取り戻し、揚羽蝶と二回遭遇し、金柑の芳香、実、花を楽しみ、最後に自然が作り出した見事な葉の寄せ植えに見惚れて、絵にした。
当初の小さな失敗へのいらだちは消えて、心は豊かさに満ちている。

これらは涼しい部屋で、オンラインで済ませたら得られなかった。
そこで時を刻む時計は、1分60秒、1時間60分を数えるのではなく、不規則で、ゆがんでいる。シュールレアリズムの奇才ダリが描いた、ぐにゃりとした時計たち、遠くに地平線が見えて、この世ではない不思議な世界の時計が浮かんだ。

人はそれぞれ一つだけの「自分の時計」を持っている。
「自分の時計」、「自分の時間」を失わないように。

名も知らないひとつひとつが異なる色と形の緑のいのち

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