ドラマの『白夜行』
先日、知人たちと話をしていたときに気づいた。自分が恵まれていることに気づけないというのは、ひどく無神経である。いかにも「善人です」という顔をしながら、じゅうぶんに他人を傷つけている可能性がある。
たとえば、世代にもよると思うが、私のようなアラフォー世代以前だと、子どもの頃、親に叱られた際にひっぱたかれたとか、殴られたとかいうのは珍しくない。実際に、周りの友人や、今まで出会った様々な環境の人(地域、育ちの裕福さ、教育環境の違いなど)に聞いても、そういう経験がある人が「私調べ」で9割だった。もちろん、環境や、一緒にいた人たち、世代によって色々とあるだろうから、あくまで「自分調べ」の結果であり、それが一般的かをここで論じるつもりはないし、そういった行為自体の是非を問いたいわけではない。
ただ、引っかかったのが「そんなの(親が子どもを叩くこと)普通はない。みんな無い。私の周りでは誰もいない」と、ある知人が迷いなく言い切ったことだ。
聞いてみたことがあるのか?と聞いたら、無いという。
私より少し世代が上の方で、その方なりに色々あったのだろうが、人の汚い部分を見ることなく、ある意味幸せに、大きく傷つくこともなく生きてこられたのかもしれない。
いつも物事を純粋に見ているなあとは思っていた。
物事のある一面だけを見て、見たままそれが真実と純粋に信じられるって、すごいと思うがおろかだ。
他の面を見てみるという行動自体を知らない。
他人や物事に裏側があることなんて想像すらつかない。考えることすら思いつかない。
そんな純粋さを綺麗だなあと思う反面、ドラマの白夜行を思い出した。
雪穂が大学で好きになった人が、自分の友人が好きで
その理由が、ただその子が幸せに育ったから。
そして、その本人は、その幸せに気がついてさえいない。
綺麗なものをただ汚したい。
そんな雪穂の気持ちを、「ひどい。人でなし」と思えない。
親に幼少期から売春をさせられ、不幸な運命を生きるしかなかった雪穂。
それは、自分ではどうしようもなかった。
子どもの頃は、自分だって同じように純粋だった。純粋でいたかった。
彼女は十分傷ついていて、それを癒す方法すら知らないのだから。
こういう話をすると、よく言われるのは
「言わないだけで、誰にでも大変なことはあるよ」
でも、その大変なことの深度は実際、平等ではないのだよ。
私は、経済的にも、人間関係も、家庭環境も、人生にそれなりに大変なことがたくさんあった。
特に、若い時は、人一倍、傷つきやすいところもあり、昔は毎日死にたいと思うくらい人生が辛かった。
それでも、私は気づいている。自分が恵まれているところがたくさんあること。
ただ、この自分が恵まれているのに、悩みを抱えること自体に罪悪感を感じる苦しさ、くだらない真面目さという問題もあるが、それはいったん置いといて。
まあ、とにかく。
世界にとんでもなく過酷な運命を背負っている人たちがいる。
個人の運命が国命とともにある人もいるよね。
それは、乗り越えても、乗り越えても、また地の底に落とされるような人生だったりするわけですよ。
乗り越えるチャンスすら与えられない人生だったり。
人生は平等ではない。世界も平等ではない。
だから、人は昔から神の元の平等に救いを求めるのだ。
自分が今まで手に入れたもの、達成できたこと。もちろん自分なりに努力はしたつもりだが、その努力できる環境や才能も含めて、すべてがただ恵まれていただけであることを、いつも心に留めていたい。
Grapevineの歌も思い出す。
「はずみや軽さで人は傷つけられる」
色々な人が、色々な人生を生きているから、「あたりまえ」とか「ふつう」って、なるべく言いたくない。
それでも、私もたくさんの人を傷つけているんだろう。
少なくとも、自分が人を傷つけていること、知らないところで人を傷つける可能性があることは知っていたい。それが自分なりの「やさしさ」だと思っている。