![見出し画像](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/156203448/rectangle_large_type_2_2bd4fdad02c8281c9c2e2594e4487bb4.jpeg?width=1200)
われわれが生きた時代
〜世界同時学生運動の1968年からの半世紀を考える〜
60年安保闘争の学生
大学存在の潮目が大きく変わるのは、1960年の安保闘争であろう。大学での想像力、言語、討論の根本的な課題の一つが「全体とは何か」全体を見る眼とはどういう眼であるのか?という問いかけがあった。その代表は、高橋和巳である。大学闘争の全面的な敗北、日本の青春の全体に解体が行われてしまった。もう一度世界全体を捉えることを可能にする根本の思想を提出したいというのが当時のパッションであったが、69年の全共闘大学紛争の時はすでに60年安保の持つエネルギーの質が異なっていた。さらに、70年代より大学が、就職へのステップと変わってからは、大学に入ることが目的になっていく。新自由主義が浸透していく中で、企業や社会の要請に大学は傾斜していく。(浅田彰)
全共闘時代の学生
高橋和巳から10年後の全共闘、安田講堂では、明らかに学生運動の質が変わっていた。1968年、フランス5月革命から世界に広がった学生+労働者による社会運動としての性格があった。集団的同調圧力が生まれていたので、個々の学生が常に「総括」を通じた自己批判を強いられる疑心暗鬼があった。有無を言わないプチブル否定が導入であった。
その後、全共闘時代が終焉して、一気に政治的熱気が消えていくのだが、そこには権力者たちの用意周到な戦略があった。
全共闘の時代、集団的同調圧力の中で運動に心情的な学生たちは、ほとんどが、自分の敵対した社会に吸い込まれていく。社会的な存在として、自分の主張を続けられる組織と思われるジャーナリスト、教師、弁護士、医師、公務員などの道を選ぶ。しかし、こうした職業にも新自由主義は深く浸透している。先鋭的な活動をしたものはむしろその才能を活かして組織のリーダーになっていく。保守派になっていくものもいる。この問題は常に問われるが、全共闘時代を経験した学生の多くは、経済的なものを優先する新自由主義を認めてはいないはずである。
しかし、60年安保や全共闘時代が本当の民主主義を獲得する社会運動にはならなかった。日本の民主主義は、受け身で戦後与えられたもののままである、という事実である。日本には本当の民主主義が根づいてはいない。
経済優先の国家となった日本社会の労働の勤勉な担い手として、ベビーブーマー世代はひた走ることになる。それをリードしてきたのが、60年代の高橋和巳世代である。彼らは、企業人として活躍する一方、NPO、NGO、組合活動、自治活動、国際ボランティア、ソーシャルサービスなどでアンガージュマンするものも多い。この世代が今人生の晩年を迎えている。社会での半世紀、何を振り返るのだろうか。次世代に何をメッセージとして伝えるのだろうか。
大学の新たな危機
大学当局は、学生を孤立させるためにITを導入する。大学のレジャーランド化、安全安心の場へ転換する。新自由主義再編の原則の方向へと。そうして、自律/自立した主体からかけ離れた主体を生産する場所へと大学を変えてきた。資本主義の高度化が行きつくと、やがてその価値観を内面化して、自己を失った人間となってくる。(白井聡「孤立のテクノロジー」)
産学協同反対が叫ばれ、学生の自治を守る運動がおこなわれた大学が、今日では、資本家のための大学になっている。産学連携には多くの競争的資金が与えられ、経団連の要請に応える理数系重視の教育が推進される。大学は、「孤立のテクノロジー」を進めることで、勉強しなくても卒業できる環境を作る。
これから
金融資本主義は、若い人たちの心にも包摂されている。60年、70年の社会情勢とは質が異なる危機的状況である。 世界はすでに地域の時代になっている。日本だけが東京に一極集中で、若者は大企業に入り、やがてボロボロになる、大企業の責任は重い。2030年には地球の60%が都市化するが、欧米は、地域ユニットの社会であり、米では連邦政府の関与は少なく、地域のニーズから多くの起業が生まれる。ドイツは植生図が地域計画(連邦建設法で表層土壌は移動できない)の条件である。地域主義は、風土的個性をもとに共同体が自らの行政的自律と文化の独自性を育てる。地域は、生態系が異なるから、画一的ではない。「景観」が違えば文化は異なる。生物学では、Developmentは受精卵から生き物ができていることを言う。つまり、もともとあるものを展開するのがDevelopmentである。
今日の大学の縮図とも言える発言が東大藤井輝夫総長の危機感である。 <最近の東大生は試験に受かるスキルを小学校からやってきた富裕層の学生が多い。国籍も日本ばかりで学生の均一化はかなり深刻である。世界の大学でこれほど異質なモチベーションが存在しない大学はないが、これが日本の社会の実体を反映している。そこで、東大に新しい学校「カレッジ・オブ・デザイン」を検討する。>
日本が文化を基盤とした国になるためには、都市中心から地域中心に転換しなければならない。地域にこそ本当の活力がある。地域のベンチャーがこれからは周縁のままで中心になる。そこから世界の周縁の地域とつなぎ合う。大学はその中心となり、学ぶ学生を育てる。全共闘世代は老人になったが、世代を超えて、リゾームしていくはずである。