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マルホランドドライブは繰り返される劇場。改めてマルホランドドライブを解釈してみる
マルホランドドライブは、
映画「マルホランドドライブ」を制作する様子を描いた劇中劇だったのではないか。
という解釈をしてみました。
デヴィッドリンチ監督が亡くなったとのニュースを聞いて最初に思い出されたのは、マルホランドドライブ冒頭。彼女が行方不明だ、と電話が繋がっていくあのシーンでした。
中学生の時、伊集院光が深夜の馬鹿力でマルホランドドライブのことを語っているのを聴いて、妙に観たくなって、次の日放課後にゲオで借りて、観て、大いなる困惑に包まれて、訳もわからぬまま返しに行って、しかし電話機のシーンがなぜかよく頭に残っていて、また借りに行って、なにもわからない。
それが私のマルホランド・ドライブ初体験でした。
あの時、私はまるでなにもわからなかったくせに、マルホランドドライブをただごとじゃないと捉えていました。
先日、プライムビデオのおすすめトップにマルホランドドライブが上がっていたので、最初から難解なものだと肩の力を抜いて観てみると、なんだか構造がようやくわかったような気がしました。なにが幻覚でなにが現実でといった物語の筋というより、もっと大枠の仕掛け。それがぼんやりと掴めたような感覚がありました。
そういうことで、その感覚にもとづく自分なりの解釈をここに書いてみたいと思います。時間がある方いましたらどうぞお付き合いください。
以下からはネタバレありまーす。読んでくださーい。
カウボーイなどの超越者たち
物語の筋を最も素直に解釈すなら、映画前半におけるベティとリタの物語は後半のダイアンによる妄想および幻覚であった、とするのが自然だと思います。
ダイアンの抱く願望や嫌悪、後悔が幻覚となって死の直前にあらわれたもの。それが映画前半のパートであり、だからこそベティ(=ダイアン)は神がかり的な演技をして見せ、リタを引っ張る明るく快活な女性となり、リタの愛を享受する理想的なシナリオを描くことができた。
この幻覚を作り出すのはカミーラ殺害を依頼してしまったことによる後悔、懺悔の念によるものであり、だからこそ幻覚の始まりはカミーラが暗殺を逃れることから始まります。
こちらの物語の筋についての考察はおそらく他の方もされていると思うので、細かい点については割愛します。
全ては錯乱したダイアンの幻覚であって、ダイアンは幻覚によって追い詰められて死を迎えてしまう。
おそらくはこれは解釈において最も一般的なものだと思えます。
しかし、この解釈だけでは理解できない異質な存在が登場します。
それがカウボーイ、殺し屋、ダイナーの男、ハリウッド大物の小人、白髭といった存在です。
彼らは現実と幻覚の境界で奇妙な振る舞いをします。幻覚であっても物語とまるで無関係な行動をしたり、時には幻覚と現実の舞台を超越するような振る舞いまでします。
最も顕著なのはカウボーイです。
カウボーイはまず幻覚パートで映画監督に主演女優を決定するよう脅迫する役目として登場しました。
カウボーイは映画監督アダムとの会話のなかでこのように語ります。
There's sometimes a buggy. How many drivers does a buggy have?
「馬車があるだろ手綱を握るのは何人だ?」
So let's just say I'm driving this buggy and if you fix your attitude, you can ride along with me.
「私が手綱を握るなら、お前が態度を改めれば乗せてやる」
I want you to go back to work tomorrow. Your were recasting the lead actress anyway. Audition many girls for the part.
「明日仕事に復帰しろ。主役を再選考するんだろう。オーディションをやり直せ」
When you see the girl that was shown to you earlier today, you will say
「例の写真の彼女が来たらこう言え」
"This is the girl"
(略)
You will see mee one more time. if you do good.
成功したら君は私にもう一度会う
You'll see me two more times if you do bad.
失敗したら二度会うことに
カウボーイは一方的に告げると闇へと消えてしまいます。なんともまやかしのような存在です。
さらに奇怪なことに、カウボーイは幻覚から現実への切り替わりポイントにも登場します。リタが鍵を開けたことで幻覚が終わり、眠る現実のダイアンが映ったところでカウボーイは彼女を起こします。
そして現実パートでのカウボーイはパーティの場面で少しだけ登場しますが通りすぎるように退場します。
このようなカウボーイの振る舞いは物語のルールからはみ出たものであり、マルホランドドライブを難解たらしめている要因のひとつとなります。
この映画を幻覚と現実の対立、そして混濁であると断ずることができないのは、カウボーイの振る舞いがその対立構造のルールにまるで則っていないからです。
では、カウボーイの役割とは何か。
マルホランドドライブという映画を制作する者の一員である。
そのように私は解釈しました。
マルホランドドライブとはこの映画自体です。
そしてダイアンが錯乱の末に命を断つという物語そのものでもあります。
カウボーイや他いくつかの登場人物はこのマルホランドドライブというプロットを円滑に進めるために役柄を演じ、物語を進行し、映画そのものを制作する一員となっていたのです。
カウボーイや白髭の目的
幻覚パートの象徴的なシーンとして挙げられるのが冒頭の電話パートです。
ハリウッドの黒幕?のような小人から電話が回されていきます。画面から推察するに電話は
小人→劇場→白髭→ダイアンの部屋
といった順にかけられていきます。
この電話の意図は終盤になってもはっきりとしませんが、ひとつ明確なことは電話が回った人物はどれもカウボーイ同様に超常的な動きを見せます。
小人はダイアンと面識が無いにも関わらず物語に登場して映画製作を裏から支配します。
劇場も終盤に唐突に登場して悪魔的な演出を行います。
白髭は映画監督が泊まった宿の管理人のようでしたが、劇場にも登場します。
ダイアンは言わずもがな、幻覚を作り出した張本人です。
このように電話を受けた彼らはどれも単なる登場人物の一人とは言えず、物語において重要な役割を担っているものと推察できます。
では、彼らの役割とはなんだったのでしょうか。
それは幻覚の進行であり制作です。
なぜそのような役割を持っているのか。
幻覚を終わらせるためです。(後述します)
彼らと仲間は、自ら積極的に働きかけることで幻覚を進行させます。
キャスティングに圧力をかけたり、役者を用いてダイアンにとって理想的なシチュエーション(自分の演技が絶賛される)といった状況を作り出したりします。これらはダイアンの幻覚を満足なものとして完成させるために必要なことでした。
彼らの超常的な映画への働きかけは、そのように考えるとむしろ自然なものです。
また、それを暗示するような場面もいくつか見受けられます。
映画監督のアダムが "This is the girl" と言う場面はスタジオのセットが大きく映されるところから始まります。歌を歌う役者たちは明らかなリップシンクです。
これは幻覚パートがあからさまな作り物であることを示しています。後半の劇場でもリップシンクや作り物であることが強調されていたのはこのためです。
単に幻覚によるまやかしということではなく、制作者の存在する作り物であることのメタファーとなっています。
これらのことから、幻覚パートでの登場人物たちの属性は以下の3つに大きく分けられます。
制作者、エキストラ、当事者たち
まず、制作者です。
繰り返してきたとおり、幻覚パートは映画製作者による超常的な振る舞いがあり、それによって物語は大きく動きます。
ここには小人やカウボーイ、白髭の他に殺し屋の男も入ります。
殺し屋の男は単にコミカルな殺しをやっただけではなく、キャスティング班としての働きもしています。仲間たちとの会話でスカウトが難航しているようなやり取りがありましたが、それは幻覚のなかに登場する様々な人物のスカウトを指しています。
ベティが熱心な演技をみせた場面で監督が素人のようなコメントをしたり、劇場で歌うのがけばけばしい女性であったりという点も彼らが間に合わせでスカウトしてきたと考えることで合点がいきます。
二つめが、そのキャスティングされたエキストラたちです。
製作者によって集められた彼ら彼女らは幻覚をただ成り立たせるために集められているエキストラのような振る舞いをします。不器用な監督や掃除屋ジーン、冒頭の暴走する若者たちなどダイアンの願望を手助けするような演出のために彼らは用いられます。
彼らの振る舞いがやたら不自然であったり、不器用なのもスカウトが難航したことによるものでしょう。
また、難航せざるをえない理由もあったのです。
三つめが、リタ、ベティ、アダムの当事者たちです。
この三人はダイアンの幻覚を現実として生きています。それゆえに映画監督は奇妙な物事の連続にただ戸惑い、ベティはリタの記憶を取り戻す手助けをし、リタはベティに好意を覚えます。
ダイアンの願望にもとづく幻覚を我が現実として素直に生きているのはただこの三人だけであって、この三人を誘導するかのように制作者とエキストラは配置されているのです。
製作者たちの動機
ここまで、以下のようにマルホランドドライブを解釈してきました。
・登場人物の一部は制作者サイドとして映画に参加している。
・彼らによってダイアンの幻覚は誘導されている。
・幻覚のなかではベティ、リタ、アダムのみがそれを現実として生きている。
では、ここで問題となるのは彼らの動機です。
製作者たちはなんのために幻覚のシナリオを誘導しているのでしょうか。
まず、ダイアンは錯乱状態によって幻覚を見ているため、そもそも幻覚を見る動機というのはありません。銃を取り出すシーンでわずかに見える錠剤の描写から、おそらく薬物や酒による錯乱状態から幻覚を見ているのでしょう。ダイアンは幻覚を生み出す本人でありながら幻覚を管理することはできません。
一方で制作者サイドはどうでしょう。カウボーイや小人、白髭といったメンバーが幻覚をコントロールする論理的な必然性は作品内には見られません。特に小人の関係者たちは監督に "This is the girl" と執拗に言わせようとした点に関しては、明快な理由はわからないままです。
これに関してひとつの解を出すのであれば、必要な手順であったから、ということになるでしょう。
幻覚内においてはダイアンの願望と後悔が詰め込まれます。
カミーラから愛されたい。女優として認められたい。しかし現実にはどちらも叶っていない。
このギャップを埋めるストーリーこそが "This is the girl" だったのです。
監督はベティ(ダイアン)を一目見て釘付けになります。知らない若い女優と合った目がなかなか離れないのです。しかし監督は主演女優を指名されています。ベティに不思議な魅力を感じながらも、結局は "This is the girl" と言うしかなかったのです。
監督はリタ(真カミーラ)を選ばず、カミーラ(カミーラの新しい恋人)を無理やり選ばされ、しかしながらベティ(ダイアン)に真の魅力を感じている。そしてベティとリタは愛し合う。
このシナリオはダイアンにとって最も望むべきもので、全ての願いを叶えるシナリオとなります。
このご機嫌なシナリオを幻覚内でダイアンにみせるために製作者たちは動いたわけです。
その目的はダイアンの幻覚を終わらせることです。
製作者たちはダイアンが自らの幻覚を終わらせるために、ダイアンにとって最善のシナリオを描いたのです。
すこしややこしいので、その説明をしていきます。
ループしていた幻覚
この映画は幻覚と現実の対立構造ではありますが、その2つに明確に分断されてはいません。
現実パートにおいても、ダイアンは後悔や懺悔の念からか細切れの幻覚を見ています。もういないはずのカミーラの姿を家の中で見てしまうのです。また時系列もひどく乱れます。自慰行為の最中にかかってきた電話の音を聴いてパーティに呼び出された場面へ飛んでしまう。ひどい錯乱に陥っています。
そして最後、とびきりのバッドトリップから老夫婦(あれは両親なのだろうか)に追い詰められ命を断ちます。
さて、問題はあのレベルの幻覚がダイアンにとって初めてであったのかということです。
そこまで追い詰められている彼女であれば、薬物や酒の影響で何度も過酷な幻覚に追い詰められている可能性はあります。
ここで、ダイアンの幻覚がループしている可能性が浮上します。
ダイアンは後悔に苦しみ、同じような幻覚を何度も繰り返し見てしまう。幻覚の登場人物たちはその中を繰り返し生きざるをえなかった。
これには問題があります。ループする幻覚では終わりがないこと。終わりがないのであれば物語としての完結を見ないのです。また、キャスティングにも手間取ります。ループの度にエキストラを用意しなければいけない殺し屋などは大変な手間になるわけです。スカウトが難航したのはそのためです。
そこで製作者たるカーボーイや小人などの面々は完結に向けて幻覚のシナリオを描きます。物語の完結。それはダイアンの死です。
先述したカーボーイの台詞には、これを示唆するような箇所があります。
You will see mee one more time. if you do good.
成功したら君は私にもう一度会う
You'll see me two more times if you do bad.
失敗したら二度会うことに
これはループ説なら説明がつきます。
もし、監督が指定された女優を選ばなければ幻覚のシナリオは完結せず、ダイアンの幻覚は繰り返されてしまうのです。つまり、望む望まぬに関わらず、カーボーイと監督は二度会うことになってしまうのです。
また、他にもループを示唆するものとしてダイナーの男が挙げられます。
映画序盤に出てきておきながら、物語に参加しない彼とダイナー裏の男のくだりは一見奇妙ながらも明確なメッセージがあります。男は同じ悪夢を二回見たというのです。そして、悪夢通りにダイナー裏には恐ろしい男が居るのです。
彼自身については明確にその役割はわかりませんが、無自覚なままにそのループに入り込んでしまっているとしたら納得がいきます。
彼はダイアンの幻覚に参加しながら、明確な役割を持たず、しかし毎度ダイナー裏という目立たない場所にひっそりと佇む「没落」の気配に怯えているのです。その没落への怯え自体はダイアンによるもので、あの汚い男の存在意義はそこにあります。青い箱を彼がゴミ同然に捨てるのも、そこから両親が出てくるのも、全てはダイアンがかつて抱いた夢の破綻、没落、悔い、それによる計り知れない不安をダイアン自身が常に感じていることによるものです。
ダイナーの男は、それを繰り返し感じている哀れな役どころとなったのです。
ループ説が真なるものだとすればループの起点は電話にあったでしょう。
冒頭の電話がダイアンの部屋にかかってくる場面でダイアンが電話を取ることはありません。その電話は現実パートの自慰行為中にかかってきたものだと考えられます。もしあそこで電話を取りに行ったタイミングで時系列が乱れなければループが始まってしまいます。
自慰場面→映画冒頭 のループ。
実際には時系列が乱れてパーティ前に飛ぶことでループには入りませんでした。
ループする幻覚に終わりはない。
終わらない映画は映画として完成しない。
始まってしまった映画は終わらせなければいけない。
制作者たちはそのために非情な手段をとります。
幻覚が完結するオチはダイアンの死です。
そのオチを迎えるためには、幻覚がダイアンによってより満足のいくものでなければなりません。
もし幻覚の内容にダイアンがあまり満足しなければ、おそらくダイアンは悲惨な最後を迎えなかったでしょう。現実に戻ってきた時のギャップが少ないからです。
しかしそれが幻覚であっても、高い理想を見てしまえば話は別です。現実を思い出せば警察の捜査に怯え、後悔し、やりばのない衝動ばかりが残っているのです。ギャップがあまりにも大きすぎます。そこへ追い立てるように地元の両親の姿が現れるのです。
制作者たちはダイアンに没落を思い出させるように物語を描いたことになります。
劇場の意味
エドワードホッパーが描いたものによく似た劇場が後半から登場します。そもそもここに向かうきっかけがリタがうわ言を言って、外に出たいのと言ったと思ったら、劇場に来ているというどんがらがっしゃんな展開なもので、観ているこちらは振り落とされんと必死になる他ありません。
しかし、ひとつ解釈するのであれば、あれは幻覚でも現実でもなかったと捉えることもできます。
彼女たちはマルホランドドライブという映画においてはリタとベティという存在でしかありません。彼女たちがその名前からも抜け出してたどり着いた劇場。
それは実際にマルホランドドライブを鑑賞する観客と同じ目線の劇場だったのではないでしょうか。
即ち、私たちと同じ目線です。
ここまでの解釈であれば、マルホランドドライブとは自覚のない劇中劇でした。登場人物たちは明確に自覚を持たないまま劇中において物語を作り上げます。
その物語を現実として生きていたベティとリタにとっては、あの劇場の舞台の上こそ先ほどまで自分たちの立っていた舞台です。そこから抜け出して、観客の立場から舞台を観ることで彼女たちは涙を流し、また白けるような想いを抱くこととなったのです。
まとめ
マルホランドドライブがループしていて、それを止めるための劇中劇であったのではないかという空想は、押井守監督の「紅い眼鏡」「トーキングヘッド」を観ていたことによる影響が大きいです。
自分で長々と書いておきながら、あまりにも突飛で空想が過ぎるので、きっとこれも悪い夢なのでしょう。
ここまで壮大なことでなく、もっと簡単なことなのかもしれません。
ただ、これほど様々なことを考えさせられ、そしてダイアンの悲劇に想いをはせることになるマルホランドドライブという映画は、まさしく名画であることに間違いないはずです。