白の葬列 ー水戸藩一村虐殺事件ー
元和二年(1616年) 春
常陸国 生瀬村
「これはっ……」
下野国那須郡馬頭村からこの地へ移住してきた北条斧四郎は、群落する白花のさつきのように、うず高く積まれた白骨の山を見て絶句した。
幾度も深く呼吸して、やっと呟く。
「あれから十四年というが」
ひと月前
下野国 徳川領 馬頭村
北条家の分家、しかも四男でロクに資産も与えられなかった斧四郎は、水戸藩から生瀬村への移住者には『郷士』の身分と、五十石の石高を与えられると聞き、期待に胸を膨らませた。
水戸郷士の最低石高基準は二十五石である。その倍にあたる石高なので、あまりにワリが良すぎる条件に不信感がよぎったものの、馬頭村に残ってもいずれジリ貧になる。このままでは嫁を迎えることもできず、本家の家職の末端に甘んじて一生を終えなければならないのは目に見えていた。
斧四郎の不信感はもう一つあった。いつもならば、そのようなオイシイ話は斧四郎に落ちてくる前に、三人の兄たちがかっさらってゆくのが常である。
「兄上たちは、なぜお受けにならなかったのでしょうか?」
斧四郎の問いに、父であり当主である政右ヱ門が答える。
「うむ、知っての通りこの地に住む者は、長く佐竹様の恩寵を受けていた。だから秋田に国替えとなった佐竹様を慕う者は今でも多い。無論、徳川家もそれを知っておろう。そして現在の領主は徳川御三家の水戸……」
つまり、徳川家にとって旧主を慕う佐竹領民は要注意なのである。斧四郎は、そこまでの話でおおよその察しがついた。
「成程、徳川が我々を厚遇する理由が見当たらない、にも関わらず好条件の話があり、その真意を計りかねている…… 兄上が受けないワケです」
政右ヱ門は苦りきった表情である。
「問題は我らの行く末だ。いつまでも『佐竹の残党』扱いされては家職に響き、食っていけぬのだ。これが百姓ならば手元に米があるからどうにかなるだろうが、我らは違う。徳川家に買い上げていただかねば飢えてしまう……」
「つまり、この話は断れぬ、と」
政右ヱ門が頷く。
話が進むに従い、斧四郎の気持ちは新天地への期待よりも、憂鬱の方が重量を増してくる。しかし、住み慣れた地を離れるということは、どこに行こうと苦労があって当然ではある。
暗き将来を知りつつ動かぬのは堕落であり、未知の闇を切り開くのは挑戦である。
斧四郎は先の見える憂鬱よりも、見えぬ不安の方を選んだ。
「ぜひ、私に」
聞いて、政右ヱ門の表情が明るくなったが、瞳の奥には憐みの色が沈着していた。
※※※
斧四郎の旅のいでたちは、油を効かせた慣れない立髪、背中に三つ鱗紋の入った袖なし羽織り、下は裁付袴である。
いずれも政右ヱ門が呉服屋に細かく注文し、仕立てたのだが、どことなく今様とはズレている。しかし腰には家に伝わる名刀、関の孫六を差していた。
それを見た従者が褒めそやす。
「斧四郎様、立派な差料ですなぁ。それは北条家に代々伝わる名刀ではありませんか」
斧四郎は特別嬉しそうでもない。
「ああ、長兄からいただいたのだ」
「え? そう、ですか……」
口をつぐむ従者に、斧四郎は言った。
「ハハハ、考えていることを当ててやろうか。あのケチな長兄がよく名刀をくれたものだ、と思っているのだろう?」
「めめ滅相もない……」
「隠さんでもよい。送別の席で、父上が口ぞえしてくれたのだ。『斧四郎は兄たちの代わりに常陸へ行くようなもの。せめて良い刀を持たせてやりたいものだ』とな。当家に『良い刀』などこれしかないからな。兄上はイヤイヤながら差し出したよ。そのときの顔といったら無かったわ」
斧四郎は笑ったが、すぐ真顔になり、従者に言った。
「それにしても、この格好は少し冷えるな。下野国より常陸国の方が暖かいと聞いていたから、これで充分と思っていたが」
「常陸と申しましても、ここは古くは奥州白川郡でございます。つまり、陸奥の国ですからまだまだ冷えるのでございましょう」(旧国制では、奥州白川郡依上保。現在の茨城県大子町)
「どうりで、底冷えのする寒さじゃ」
水清く、緑深く、幸多し。と良い情報ばかり聞いていた。確かに、土地そのものはその通りだと思った。
「しかし、人っ子一人おらん」
街道の侘しさから思わずポツリと呟く。そして懇願沢、首塚、地獄沢と不気味な名をつけられた場所に至り、侘しさに不気味さが加わった。そして、白骨の山に突き当たったのである。
「これは女ものの着物ではないかっ。それに、小さなしゃれこうべまで……」
おそらく親子であろう、母親らしき白骨が小さな白骨に覆いかぶさっている。しかし斧四郎も武士の端くれ、死体を見て驚くような心は持ち合わせていないが、問題はその多さである。
男女、子供問わずここで虐殺されたに違いなかった。そして今、この地域には誰もいない。
村人全員が何者かに殺され、十四年間放置されたとしか思えなかった。
そしてこの場所が、斧四郎の任地である。
「こんなことができるのは」
そこまで言って自身の立場を思い出し、喉から出かかった次の句を飲み込んだ。
水戸藩兵の仕業だと容易に想像はついた。しかし、斧四郎はその水戸藩から郷士の地位を貰ったのだ。うかつに口に出すことなど出来ない。
「皆の衆、まずはこれを、片付けよう」
馬頭村から斧四郎に付き従ってきた人々にそう言った。あえて、『埋葬しよう』とは言わなかった。
あくまでもモノとして、何の同情心も持たずに処理させようとした。同情心があれば、誰がやったんだ、許せぬ、という話になってしまう。ここにいる誰一人として、水戸藩への悪感情を持たれては困るのだ。
「あのう…… 斧四郎様、なぜ我々のような下野国のよそ者を入部させたのでしょうか? 同じ常陸国から入部させればよいのに……」
従者が恐怖に唇をゆがめながら、遠慮がちに聞いた。白骨の山に触れてはいないが、真に聞きたいことは、明らかである。
斧四郎も事件の詳細は知らされていない。ただ、水戸徳川家の役人からは、『十四年前に乱…… いや、ただの百姓一揆があってな。だから村は少し荒れているかもしれませんな。それと、その地で見たことは、他言無用にて。郷士殿』とだけ聞いていたから、何か仔細があるのだとは思っていた。
しかし、目の前の光景は想像を絶するものだ。
斧四郎はゴクリと喉を鳴らしてから、核心に触れず、従者に説明した。
「うむ、水戸藩は徳川御三家の中で一番石高が少ない。他の二家は、尾張大納言様、紀伊大納言様だが、水戸殿は中納言様であることでも解ろう。今は亡き大御所様(家康)から疎まれたとのことだ。それに、最近はその中納言の地位も維持出来るかどうか怪しいらしい。だからどんな土地でも耕して石高を上げねばならん。例えその場所に白骨があろうが……」
斧四郎は声を低くして続ける。
「お前も噂には聞いているだろう? 水戸は他藩に比べて年貢が重いので有名だ」
「はい。聞き及んだことがございます。つまり、遊ばせておくような田地の余裕は無いと」
「そうだ。特にこの土地一帯は慶長検地の対象だったから、石高があがるべき場所だ。荒廃したままにはできんのだろう。『いわくつき』でも、な」
「我々のような他国の者を入れたのも、その『いわく』に関係があると言うことですな?」
「おそらくはな。近隣の百姓たちは『いわく』の事情を知っているから、入ろうとせんのだ。この白骨の中には知り合いもいれば、親類縁者、いいなづけなどもおろう…… もうこの話は終わりだ。よいか、もう白骨の話はするな」
斧四郎は、水戸徳川家の役人から『……郷士殿』と言われたことを思い出す。つまり、役人は『お前も水戸側の人間だぞ』という意味を込めたのである。
斧四郎は従者に、言葉を付け加えた。
「我らは今日から、水戸殿の郷士ぞ」
「はい。では、手早く片付けなければなりませんな……」
さも気乗りしなさそうに、従者は地獄沢の一本松たもとに、歩いてゆく。
そこには頭蓋骨にこびりついた長い髪が、風になびいて手招くように、揺れていた。
※※※
白骨の埋葬を終え、屋敷で身支度を整えると、斧四郎は従者とともに名主の家に出かけて行った。
門には名主自らが出迎え、斧四郎にうやうやしく頭を下げる。
その慇懃な態度に、斧四郎は好感を持った。
「村の名主を勤めております、嘉衛門と申します」
斧四郎も傘を取って挨拶を返す。
「北条斧四郎と申す。こたび水戸殿より郷士に任じられ、下野国馬頭より参った。よろしく頼む」
「こちらこそ、よろしくお願い申し上げます。まずは中へ。宴の用意をしております。ささ」
「うむ、かたじけない」
斧四郎は相手の身分の低さにも関わらず、丁寧な態度を崩さない。
それには理由があった。
下野国馬頭村の北条家は、代々地元の武茂川で取れる砂金を収集、管理しており、年貢も純金で物納していた。よって金を精製し、純度を上げる技術はあるが、田地の管理、収納は専門ではない。勝手の違う仕事なので、どうしても村の庄屋や名主の力を借りることが多くなるから、良好な関係を築いておかなければならないのだ。
一般の領主は米を売り、その金で物品を買うが、北条家は純金をまず領主である水戸徳川家に買い上げてもらって、米やその他雑貨を購入する。
米は誰しも買うが、純金はそうではない。北条家が生瀬郷への入部を断れない理由もそこにあった。
酒が進んでくると、嘉衛門は不意に垂れ目の中の瞳を光らせて、聞いてきた。
「ところで斧四郎様、地獄沢で何かご覧になりませんでしたかな?」
「うむ、見たは見た」
斧四郎はそうとぼけて、嘉衛門の返答を待つ。
「どう、思われましたか?」
「武士があれくらいで尻込みするはずがなかろう」
それは嘉衛門の期待した返事ではない。嘉衛門は、水戸やこの村に対しての印象を聞きたかったのだ。もちろん斧四郎もそれを知っていながら、はぐらかしたのである。うかつなことを言って、嘉衛門の口から水戸藩に告げ口されるのは避けねばならない。
嘉衛門が重ねて問う前に、斧四郎は機先を制して聞く。
「しかし郷士として来たからには、どんな理由でああなったのか、知っておかねばなるまい」
「わたくしどもも、大子村から最近やってきたばかりでして、詳しい事情はさっぱり」
明らかに口の中で用意されていた回答である。
(まあ、うつけと思われるのも、良くはあるまい)
そう考え、斧四郎は言った。
「それでは、生瀬の田地のこともわからないだろう? 頼りになる者はおらぬのか?」
つまり、お前は頼りにならない、ということである。
「田地のことであれば、わたくしめになんなりと」
「なぜだ? 嘉衛門殿は大子村から来たばかりだから、何も知らぬのだろう? あの白骨のことも」
ぐっ、と息を飲む様子が、嘉衛門の喉の動きでわかった。
「北条様はお若いのになかなか……」
「いかがいたした?」
「いや参りました。ただし、ここだけの話でございますよ。ご家来の方も」
そう言って、隣に座る従者にも視線を投げ、いかにももったいぶった口調で話し始めた。
「一村討伐にございます」
やはり、と思いつつ、その理由を聞いた。
「なにゆえだ?」
「年貢を取立てるお役人様を、村人が殺めたのでございます」
「何っ?」
「そして、ご家老自ら討伐軍を指揮して、一村皆殺しに」
「なんとっ…… しかしなぜ村人は役人を殺したのだ。役人だってお役目なのだから、年貢を取り立てるのは仕方ないではないか」
「それが、庄屋によりますと、取立てにやってきた役人に、一旦は年貢を納めたのでございます。しかし、納めてしばらくしたら、別のお役人様がやってきて年貢を催促したのです。当然、庄屋は納入済みであると言いましたが、お役人様に聞き入れてもらえず、これは偽の役人だと判断して殺したとのことでして。しかし、実は最初に来た役人が偽者で、後に来て殺されたお役人様が本物だったのですよ」
「ふむ、役人を殺されて怒った水戸殿に討伐された、か」
「はいその通りでございます。本当に恐ろしいことで……」
聞いて、斧四郎は満足そうに笑って見せる。
「うむ、話していただき痛み入る。これからは何かにつけ御身に相談させていただこう」
「そう言っていただけると安心でございます。ささ、どんどんお酒を召し上がってください。長旅でお疲れでございましょう」
「うむ、いただこう」
明日からは領地の見回り、石高計算、開墾計画などやることは山ほどある。斧四郎は勧められるままに飲んだが、役目のことを思うと気負いと不安でどうしても頭がさえてしまい、酔いがこない。
斧四郎は従者に目配せすると、キリのいいところで宴を切り上げ、まだ日のあるうちに帰路についた。
陽が落ちると、南北に山々が迫るこの村は、すぐに暗くなる。従者が行灯に火をともす。狭い街道は一つの行灯でも充分に、光は行き届いた。
「斧四郎様、一村皆殺しとは、恐ろしい話でございました。最初の役人に騙されたのは同情しますが、後の役人を殺してしまうなんて」
斧四郎は答えて言った。
「本当だと思うか?」
「は? 嘘だと?」
「わしには意味がわからぬ」
「どこが、でございますか? 明瞭ではございませぬか」
「では聞こう。まず、『最初の役人が取り立てに来た』と言っていたが、どこの領地に年貢米をもらいに来る役人がおるか。村人が領主の蔵に年貢米を輸送するのが当たり前だ。海路運ぶのなら御用船を使うから別だが、それでも港までは村人が運ぶだろう。しかしそのような必要は無い。ここは水戸まで陸続きぞ」
「言われてみればその通りでございます。最初に来た役人が年貢米を持って行くと言った時点で、普通は何か変だと思うでしょうな」
「それに、『最初に来た役人』だが、話どおりだとすれば、いわば盗賊の一味であろう? 水戸殿は追っ手を出さなかったのか? まだある。『後に来た役人は聞き入れてくれなかった』とのことだが、年貢を催促しにきた役人に盗賊の話をしてどうする? いやしても構わぬが、その役人には対応できまい。まずは奉行所に訴えて盗賊をひっとらえ、年貢米を取り返すというのがスジというものだ。つまり被害を水戸殿に訴え出るのが先決だ。盗まれたのが解っていれば水戸殿といえど、年貢米を催促しようにも出来ぬではないか」
「言われてみればごもっともでございます」
「また、その盗賊にも疑問がある。何人だったのだ? 年貢米は最低でも三十石はある。一石三俵だから、九十俵だぞ。馬一頭に二俵のせ、人が一俵担ぐとして(一石約150kg、一俵は約50kg)、馬三十頭に人間三十人だ。そのような大規模の盗賊が行列して通れば、周辺の村々でも気がつくから、行方知れずになりにくい。それに盗賊は荷を背負って足が遅いから追いかければすぐに追いつく。なぜそれをしなかったのだ? そもそも盗賊が行列をなしてゆるりと行くというのも、考えにくい」
従者は考え込んでしまった。斧四郎は続ける。
「さらにだ。嘉衛門は『庄屋によりますと……』と口を滑らせた。つまり嘉衛門は全滅した村の、庄屋から話を聞いたことになる。いや庄屋だけが生き残って話を伝えたとしよう。話を戻して、後から来て殺された役人は誰と談判していたのだ? 百姓から取り立てた年貢は、一旦庄屋が集め、その責任において輸送する(当時は個人の責任で税を払うのではなく、村の責任で年貢を納めていた・村請制度)。だから、役人は庄屋と談判していたのだ。ならば、役人を殺したのは庄屋しかいないではないか。少なくとも、首魁は庄屋と見てよいだろう。にも関わらず、無関係の村人が全員殺され、首魁の庄屋は死を免れて嘉衛門に話を伝えただと? ありえぬ。仮にだ、その話が本当だとすれば、水戸殿は庄屋を含め、役人を殺した下手人を捕縛して処刑すればよいだけのハナシだ。百姓を殺したらタダでさえ低迷している水戸の石高が下がる一方ではないか。一村皆殺しで、水戸殿が得をする要因が見つからぬ。だから、嘉衛門の話は全く意味がわからん」
「では、嘉衛門の話したことは、全部嘘ではありませぬか」
「おそらくな。おぬし気が付かなかったか? 嘉衛門は最初、話すことを渋っていた。そのわりに、話し出すとこちらが聞かぬことまで話しおった。あれはあらかじめ嘘話を用意していたに違いない。しかしだ。嘘をつくにはつかねばならぬ理由がある。あの場で追い詰めたところで嘉衛門は真実など話すまい。我らにとって、話が嘘だとわかったこと自体が収穫なのだ。それに、真実はあるぞ」
「それはなんでございますか?」
斧四郎は一旦息をつき、暗澹と答える。
「地獄沢に、白骨の山があった、という事実だ……」
行灯に浮かぶ斧四郎の表情には、このまま捨て置かぬという、覚悟が感じられる。
それはまるで、髑髏の群れの声が斧四郎には聞こえ、その懇願に答えようとしているようだった。
十四年前
慶長七年(1602年) 九月
常陸国水戸 武田家
「草の根分けても探し出せ。万が一見つからぬときは、わかっておろうな」
武田家家老、蘆沢信重は配下に厳命した。無論、命じられた武士は、その意味するところは理解できている。
つまり、切腹である。
長かった戦国時代が終わって武田信玄ゆかりの武田家復興も叶い、徳川家康五男の松平信吉は、武田信吉と姓を改め、秋田に国替えとなった佐竹氏と入れ違いで水戸に入部して間もない。
二十万石である。
家康直々に家老職を言い渡された蘆沢信重は、その任の重要性に緊張しつつも、家康の信頼が厚いことに感激し、職務に全精力を注ぎ込んでいた。
しかし、全てにおいて満足していたワケではない。
「欲を言えば、もう少し石高のある領地が良かったが」
領主、武田信吉は若く病弱といえど、家康の息子である。五十万石以上の領地が妥当かと思われたが、実際はその半分も無く、信重は少なからず落胆していた。
「佐竹の旧領地は全部で五十四万石だ。いずれ殿にいただけるのでは……」
水戸入部前はそのような望みもあったが、霞ヶ浦を中心にした常陸南部の肥沃な土地は、次々に別の大名に与えられてしまい、武田家の領地は水戸を中心とした常陸北部のみ、で決着してしまった。
「なんとしても、徳川御一門としての家格はいただかねばなるまい。外様なんぞの風下におられぬわ」
家格は必ずしも石高によって決まるわけではないが、石高の高い外様大名は、低い譜代大名に対して見下した態度をとったり、命令を無視するなどの態度も多い。譜代の頂点である御三家として、そのような扱いを受けるのは我慢ならなかった。
「この信重の力量次第、というところか。大御所様(家康)も大そうな試練を与えてくれたものよ」
そう前向きに考えを切り替えると腹心の家来を呼び、石高を上げる策を練る。
「検地の際に田地を計る、検地竿を短くすれば」
「うむ、それだけ田を広く見せることが出来るか。あざといが、背に腹は変えられぬな」
家来の策に信重は頷いた。
「具体的には、現行は六尺三寸(191cm)で一間でござりまするが、六尺(180cm)を一間にしては、と」
「あまり短いと見抜かれてしまうからな。それでよいだろう。さすれば、短尺竿で一割は石高が上がる(20万石が22万石になるように見える)。あと三万石は上積みしたい。追加施策として、全ての田を上・中・下・下々の等級の『上』にして収穫を多く見積もるのだ。さらに、耕されず放置された荒地をも検地の対象にせよ」
「とするなら、年貢率も変えねばなるませぬ。佐竹は四公六民(年貢率40%。ちなみに、善政で知られる斎藤道三でさえ五公五民である。佐竹領の年貢は全国的に軽かった)でしたが、どういたしましょう?」
「うむ…… 石高二十五万石に相当する収入がなければ、誤魔化しが露見してしまう。田は六公四民(年貢率60%)、野菜、芋などの畑は七公三民(年貢率70%)くらいが妥当であろう」
「そっそれはあまりにも……」
「なんじゃ」
「いっいえ、ではそのように。早速、検地竿を『改良』して検地を行い、その後、村々に年貢割付状(徴税の書類)を送りまする」
信重は、満足そうに頷いた。
早、その翌週には、石高算出の基本情報を得るために、検地が始まった。もちろん短尺の検地竿で、である。
そして当然のことながら巻き起こった領民の反発をねじ伏せねじ伏せ、おおかた検地が終わろうとしていたそのときだ。
事件が、発覚した。
信重は激高した。
「けっ検地竿が奪われただとっ?」
「申し訳ございませんっ」
「うつけ者っ! あれほど、検地竿の管理に注意せよと申したではないかっ、四か月後には大御所様(家康)が朝廷から征夷大将軍に任じられ、幕府を開く大事な時期ぞ。そのようなときに、御一門である水戸が検地を誤魔化したなぞ露見したら…… 大御所様の顔を潰すばかりか、当家の命運もこれまでじゃっ! 下手人を捕まえ、検地竿を奪い返…… いや」
信重は深く息を吐いて、血が上りきった頭脳を冷やした。
「どこで奪われた?」
「久慈郡の生瀬郷にて」
「生瀬? 聞いたことのない村じゃな。里程間数図(村落単位の地図)をここに」
信重は生瀬の地理を見て、青くなった。
「すぐに奥州白川(現在の福島県白河市)ではないかっ……」
「はい、下野(栃木県)にも近いですな」
「たわけっ、水戸領の外に出るのはたやすいと言っておる。それに下野馬頭には我らの飛び地がある(下野国北部は那須領だが、馬頭のみ旧佐竹領。水戸徳川家はそれを引き継いでいる)。行けばわざわざ捕縛されに行くようなものじゃ」
「すると、下手人の向かう先は奥州…… すぐに追っ手を」
「いや、他の者には任せられぬ。わし自ら出陣する。馬を引け」
※※※
そのころ、生瀬郷では庄屋が村人に逃亡を促されていた。
「庄屋様、この長さを誤魔化した検地竿を見てくだされ。それに役人は荒地まで検地して、年貢を増やすつもりのようですじゃ。また佐竹様のときは四割だった年貢が六割。畑では七割ですぞ! これでどうやって生きていけましょうかっ」
庄屋は困り顔で答える。
「しかし、他の村も同じじゃから……」
「庄屋様っ、他の村は盗賊の被害にあっておりませぬ。わしらは盗賊に虎の子の三十石を騙し取られ、さらに年貢を三十石、水戸に納めねばならないのですぞ! 村の娘全員を売っても都合つきませぬ!」
「だからそれは、奉行所に訴えてじゃな……」
「何を言っておられる。年貢を催促しに来た水戸の役人は聞く耳持たず、ただ怒鳴りちらしたではありませぬか。訴えてもお取り上げくださりますまいよ」
「皆の衆、落ち着いてくだされ。わしらが大挙して秋田に行ったとしても、住む場所も、食い物も無いのじゃぞ。苦しいのは今だけじゃ。住み慣れたこの場所で、踏ん張りませぬか」
「庄屋様、それでは、信仰をお捨てなさるか」
「ぐっ……」
庄屋は答えに窮した。逃亡を迫る村人の一番後ろで黙して成り行きを見ていた日本人宣教師、ペードロ人見が口を開く。
「庄屋殿、奥州白川では旧領主、上杉殿にゆかりのあるキリシタンが貴殿らの到着を待っておりまする。そこからは秋田の佐竹殿の元まで拙者が一命に代えてもご案内仕る。秋田では久保田の地に全員の住居を用意しており、また食糧も三十石分ありまする。生瀬郷の村人全員、約一年は食べていける量でござる。だからご懸念には及ばぬ。ただし、信仰を捨てたならば、それも出来ぬ相談でござる」
庄屋は、わなわなと震える指を、人見に向けた。
「さ、三十石、じゃと?」
明かに、謀略の符牒の一致である。他の村人も気がついたはずだと周囲を見回すが、村人たちは不気味に沈黙している。
最初に来た役人は、佐竹の手の者だったのだ。つまり、秋田への国替えに際して、常陸の領民を連れて行き、新しい領地の開墾を速やかに行う考えなのだ。大名としての”力”である石高は、百姓が土台であることを、佐竹氏は知り尽くしていた。
孤立無援と知った庄屋は、それでもなんとか断れないものかと、しどろもどろに言い返す。
「しかし、徳川家はイエズス会と手を切っても、オランダ国との付き合いは続ける方針と聞く。生瀬におっても、信仰は続けられると思うのじゃが……」
人見は言った。
「オランダは同じキリシタンとは言え、プロテスタントでござる。我らの信ずるカトリックとは宗派が別にて。プロテスタントの信徒はカトリックの祈りが聞こえると、耳を塞ぐとのこと。我が国で例えるなら、天台と真言ほど、いやそれ以上に教えが違い、また反目しており、現在の信仰を続けることなど到底できぬ。それに……」
人見は、抜身の刀を頭上高くかざして庄屋に見せた。刀身には、血糊がベッタリと付着している。
「短尺竿を持っていた水戸の役人、拙者が斬り申した」
「なんとっ! それでは、もうここにおられぬではないかぁ」
庄屋は驚愕の表情でそう叫んだが、それも村人たちにとっては既知の事実であるらしく、動揺の色は無い。ただ鬼気迫る眼光で庄屋を見つめている。
その視線の剣を避けるように、頭を抱えてうずくまる庄屋に、人見は言った。
「短尺竿が我らの手中にある限り、水戸殿もおおっぴらには動けぬとは思うが、行動は早いにこしたことはない」
つまり、生瀬の百姓にとって検地の短尺竿が『人質』である。もし仲間が水戸に捕えられたなら、これを国替えされた佐竹公に渡し、家康の征夷大将軍の任命式にあわせて朝廷に届ける、と言って交渉材料にする。それでも徳川の世は磐石ではあるだろうが、家康の顔と水戸家の面目を潰し、佐竹公の意趣返しになる。うまくいけば、水戸家は中納言格にそぐわぬと判断され、少納言格に格下げされるかも知れない。そうなれば今後、石高の多い外様大名たちの風下に立つことを、余儀なくされる。
人見は、徳川家の恐れていることを熟知していた。
「……」
庄屋は衝撃のあまり、絶句して応じる言葉も無い。役人を殺したとあれば、死罪はまぬかれないのだ。
「では、常陸、奥州の国境でお待ち申す」
人見は生瀬郷の選択肢を完全に奪い、一村逃亡は確実と見て、その場を立ち去っていった。
「庄屋様! 庄屋様っ!」
村人から重ねて促され、庄屋は力なく、頷いた。
「庄屋様、逐電の準備が整い次第、即刻出発いたしましょう。待ち合わせ場所は、生瀬村の北、高柴村との境にて。よろしいですな?」
村人は何度も確認すると、一旦解散して各自の家に戻っていった。一人残された庄屋も諦めたように、家人に命じて準備を始める。
「いや、待つんじゃ……」
しばし考えると、何か思いついたように呟くと、庭に繋いでいた農耕馬に鞍もつけずまたがり、夕暮れ迫る街道を南に向かい、疾走していった。
※※※
「おい、止まれ、止まらぬかぁ!」
庄屋は、正面からやってきた騎馬武者たちに前をふさがれ、転げるように馬から降りて、跪いた。
「何奴じゃ、このような時間にただ一騎早馬を走らせるとは」
庄屋はぬかるんだ地面に額をつけ、平伏して答える。
「生瀬郷の庄屋でござりまする。村で一大事が起こり、水戸殿にご報告をと」
「生瀬だと?」
騎馬武者の後方から、完全武装で金色の陣羽織を着た武士が、進み出てくる。
「わしは水戸の家老、蘆沢信重である。生瀬の庄屋と申したな。一大事とやらの仔細を申してみよ」
庄屋は歯の根が合わぬ、しどろもどろな口調でいきさつを説明する。
「うむ、よく知らせてくれた。生瀬と高柴村との境に参集し、そこから奥州へ逃亡しようと言うのじゃな。間違いないか」
「ははっ!」
「うむ、よく申した」
信重は、ふと、厳しい口調で聞いた。
「ところで庄屋、検地竿だが、見たか?」
庄屋はコクリと頷く。
「して、どう見た」
信重は、刀に手をかける。それを合図に配下の騎馬武者たちは、庄屋を取り囲んだ。
庄屋が見上げると、虫でも踏み潰そうとするかのような、安っぽい殺意の視線が集中している。それは、庄屋にこの状況においての、自らの生命の価値を認識させることに繋がった。
庄屋は嘘偽り無く、しかも従順な答えを返さねば命は無いと覚る。
「は、はい…… 検地竿を拝見いたしましたが、わたくしめには、特段不自然なところは見受けられませんでした」
庄屋は、震え声で答える。
その様子を見て信重が顎をしゃくると包囲は解かれ、騎馬武者たちは隊列に戻ってゆく。
「うむ、おぬしはこのまま水戸屋敷にゆけ。そこで我らの帰りを待つがよい」
信重はそう言い捨てて、生瀬郷を目指して疾走していった。
しかし、生瀬郷に到着すると、村はすでにもぬけの殻である。
信重は馬上で膝を打った。
「遅かったかっ、二隊に分ける。一隊は街道を抜けて高柴村に先回りせい、もう一隊はわしが直接指揮をとり、山道を行く。急げ者どもっ!」
信重は馬にムチをあてた。それにしても、と信重は考える。
(百姓にしては行動が迅速で、かつ統制が取れておる。あの庄屋が訓練したとも思えぬな……)
生瀬で信重と別れ、高柴村に先回りした水戸勢は、街道に立ちふさがる一人の男によって妨害されていた。その姿は異様なものだ。
宣教師が着る三十三の銀ボタンが並ぶ、立て襟の黒く長い法衣、その上からやはり黒い帯を締め、反りの深い日本刀を佩いている。
「面妖な。何者だ」
「元、豊臣家の侍、人見九右衛門と申す。洗礼名、ペードロ人見」
「豊臣の家臣でキリシタンかっ、ならば生かしておく理由は無いな」
人見は聞いて、鼻で笑った。
「わしをキリシタンと見て侮るな。合戦経験の無いモヤシ武者とはワケが違う。腰の刀も関ヶ原以来、戦らしい戦に飢えておる」
「口は達者なようじゃな。一人で何ができようぞ」
人見は声高らかに笑うと、言った。
「検地竿の長さを誤魔化すような腑抜け武者ごとき、何人いても物の数ではござらん」
「くっ、なにおぉぉ、斬れっ! 斬れっ!」
「参るっ!」
そうおめきざま、一騎の騎馬武者が人見に向かって斬りつける。
「主よ、わたくしをお守りください……」
人見は呟くと、素早く胸で十字を切って襲い来る刃を飛びのいてかわし、街道横の斜面に駆け上がるとそのまま跳躍。騎馬武者の上段から斬りつけて落馬したところを手綱を掴んで飛び乗って奪い、馬首を水戸勢に向けた。
一瞬の荒業である。
騎馬武者たちはまるで曲芸でも見物しているかのように、人見の武勇に口を開けて見惚れていたが、ハッと我にかえる。
「射よ、射よっ」
次々に矢が飛んでくる。一の矢を身を伏せて避け、二の矢が飛んでくる前に落馬した水戸の武者の首をひっ掴んで盾にして、蜂の巣にする。水戸勢が三の矢をつがえようとするところ、人見は馬を早駆けし、群がる射手の頭上をパッと飛び越えた。
「うわあぁっ!」
射手は一斉に頭を下げ、三の矢を放とうとするが、そこには味方もいて狙いが定まらない。
指揮官らしい騎馬武者が叫ぶ。
「にっ逃がすなっ…… いや、我々の目的は生瀬の百姓と検地竿の奪還じゃ、人見は捨て置けいっ! 射手だけここに残れ。事が終わるまで人見を通すな、よいなっ!」
人見は馬首を返して再び飛び越えようとしたが、水戸勢は狭い街道に盾を押し並べて矢を射掛けてくる。
「そこな武者どこへゆく、返せ返せ。水戸の侍は一騎打ちもできぬのかっ!」
人見は先を急ぐ騎馬武者を見て、嘲って足止めしようとする。
「一騎打ちなど、何を時代遅れなことを申しておる。皆の者、人見の挑発に乗るでないぞっ」
敵わぬと見た水戸勢は、戦術を転換して防御に専念し、騎馬隊は人見に背を向けて高柴村方面に急行してゆく。
(まずい、これでは水戸勢が生瀬郷の人々に追いついてしまう……)
焦った人見が近づこうとすると、水戸勢は矢を射掛けてくる。しかし、決して刃を交えようとはしない。
(くっ、このままでは、背後に敵をうける恐れが)
人見は、歯噛みする気持ちでその場を走り去り、道を変えてただ一騎、生瀬の民の無事を祈って常陸・奥州の国境を目指して走り出した。
一方、山道を進む信重は、生瀬の民の集合場所を突き止めて包囲網を完成しつつあった。
「ご家老、役人を斬った下手人は誰でございますか」
信重は、そう聞いた配下に答える。
「そんなものは誰でもよい」
「は?」
信重にとって、役人を殺した下手人を捕えるよりも、短尺竿を取り返す方がはるかに重要であった。
「検地竿の秘密を知っている者が、生きておってはまずい」
「しかし…… 知っている者が誰かなど、わかりませぬ」
信重は蛇のように、無感情な殺気を帯びた瞳を向ける。それは、完全武装の鎧武者たちがたじろぐほど、冷酷な光があった。
「者共よく聞け、全員知っておる。よいか、『全員』じゃ。女子供、老若男女問わず全員じゃ」
「は…… はっ」
「情け無用。水戸の存亡がかかっておる。全員殺せ。降伏も相成らぬぞ。かかれっ!」
十四年後
元和二年(1616年)
常陸国 水戸藩邸
「なんと、酷い…… 人のすることでは、無い」
北条斧四郎は水戸徳川家の屋敷において、生瀬郷の歴史を調査していた。
もちろん、水戸藩の役人の監視がついている。恰幅の良いその役人は、鴎仕立の裃にピンと張った肩衣といういでたち。戦国時代を背負っているような斧四郎の袖無羽織姿を見て、細い目の奥で蔑みの笑みを浮かべている。
斧四郎の様子を横目で見ているその役人は、事務的に言う。
「北条殿、そしてこれが検地竿でござる。今後は北条殿の協力なくして検地は行えませぬゆえ、見ていただいた。これを見たからには、お役目を違えることはなりませぬぞ」
今は白骨となって地獄沢の地中で横たわる、生瀬の民が頼みの綱とした、短尺竿がそこにある。
(おのれ、今からでも、これを佐竹公に……)
斧四郎らしい正義感が鎌首をもたげる。しかし、それを実行するには、この地を出奔して秋田の久保田に行かねばならない。
しかし、生瀬の民と斧四郎とでは、背負っているものがあまりにも違っていた。
斧四郎には、徳川に純金を買い上げてもらわねば生きてゆけない父母、兄たちがいる。腰には、父の口ぞえで手に入れた名刀がある。
そして何よりも、それらを犠牲にするほどの『信仰』が斧四郎には、無い。
熱い正義感が徐々に醒め、昨日まで必死に取り組んでいた領地の石高計算が頭に浮かんだ。
(合わぬ。計算が合わぬ)
斧四郎は役人に向き直り、短尺竿を指差して抗議した。
「しかし、これでは当初の約束、つまり拙者に与えられた石高、五十石に足りないではありませぬか。せいぜい二十石ほどでござろう」
つまり、斧四郎に与えられたのは、正当な検地による石高ではなく、短尺竿と不当に高くした田地の等級、田畑ではない荒れ地をも検地した結果の『五十石』なのだ。
「それは水戸藩全てにいえましょう。大納言格の五十万石に足りず、中納言としての最低国高、二十五万石を維持するのがやっとの現実。他国から来た新米郷士に、気前良く石高を与える余裕など、当家にはござらぬ。そうそう、北条殿。貴殿の領地で二十五石が無ければ、郷士の地位も危ういのではござらぬか? 当家においては郷士としての最低石高は二十五石であるのをお忘れか? こんなところで生瀬郷の過去帖など、調べている余裕など無いのではござらぬか?」
その冷ややかな言い方に、斧四郎は怒気を含んで睨む。
「水戸殿は、最初からそのつもりでっ!」
役人は鼻で笑いながら、悪びれもせず言った。
「当然であろう」
斧四郎は、その答えに絶望感を覚え、腰の物に手をかけて鯉口を切った。関の孫六の美しい波紋が覗く。
「我ら下野国のよそ者を入れたのは、そういうことなのかっ!」
鯉口を切るという行為は、宣戦布告に他ならない。武士であれば、それを無視することなど出来ぬはずと、斧四郎は思っていた。
しかし、役人は自分の刀に手をかけない。また、臨戦態勢の斧四郎を見向きもせず、平坦で冷めた口調を崩さなかった。
「拙者を斬るのはたやすいことでござる。しかし、それで郷士の地位は確固たるものになるのでござるか? 下野馬頭の御本家は安泰なのでござるか? 貴殿は十四年前の生瀬郷に学んでおらぬのか?」
(下野馬頭の御本家だと? こやつ、なにもかも知って……)
水戸徳川家が生瀬に入部させる郷士に、下野馬頭の北条家を選んだ理由が、役人の言葉で理解できた。
一つは虐殺された生瀬の民と関連の無い、他国の者であること。次に他国でありながら水戸徳川家の支配下にあって裏切る可能性が無いこと。さらに男兄弟が多く、生瀬で郷士の務めをしても、本家の家職に影響の無い家族構成であること、である。
三つの条件を全て満たす家は少ない。斧四郎はここに至って、水戸徳川家が慎重に北条家を選定したことに気がついた。そしてその慎重さを不気味にも思った。なぜなら、それらは全て『短尺竿の秘密を隠すため』という、男らしくも武士らしくも無い、ジメッと湿気を含んだ理由に繋がるためだ。
「……」
斧四郎は、馬頭を出る時から、苦労は覚悟していた。しかしそれは、慣れぬ仕事や計画通りいかぬ開墾、下野のよそ者ゆえまつろわぬ人心、などである。それでも、本家の末端で泥のように送る人生よりも価値があると考えたのだ。しかし、現実は本家にがんじがらめに縛られている。また、石高とその年貢率から、裕福な暮らしができるとも思えない。
そして何よりも『騙された』という出発点に身を置いて逆らえない、自らを取り巻く状況に我慢ならなかった。
暗澹たる気持ちの斧四郎をからかうように、役人は言う。
「それにしても、立派な差料でござるな。いつまでも鯉口を切っているのは、さては拙者に自慢するつもりでござろう。それともやはり、拙者を斬るおつもりか?」
(生瀬郷は、検地の役人を斬っても何も変わらなかった。それどころか、自身さえ滅ぼした)
斧四郎は急に白けて、刀を収めた。
役人は相変わらず、斧四郎に視線さえ投げることなく、しきりに帳面に筆を走らせながら、言葉を続ける。
「北条殿、時代は変わったのでござる。刀など飾りにすぎぬ。戦国が終わった今、対外的な敵はおらぬゆえ、せめてもの使い道は自分の腹を掻っ捌くことぐらいでござろう。これからは味方同士が騙し騙されする時代になり申した……」
その後も役人の言葉は続いたが、斧四郎の耳には入らない。
(時代は変わった、か。死んだ生瀬郷の民は、信仰があっただけ良かったのかも知れぬ。生き残ればペードロ人見など仲間の信者が手をさし伸べ、死すればバテレンの神とやらが手をさし伸べる。しかし、そのどちらも無い俺は……)
斧四郎は、今後、自らの生きる道に夢の無いことを思い知って、うなだれる。その姿を、水戸藩邸に浮遊する、白骨の群れに睨みつけられているように感じていた。
それは列をなしてぐるぐると、斧四郎の周囲を取り囲んでいる。眼窩が落ち窪んだその奥から、責めさいなむ眼光が斧四郎を刺す。
斧四郎は、その視線から目を逸らすと、役人に向き直り、頭を下げてかすれた声で言った。
「今後とも」
立ち上がった斧四郎の汗ばんだ手には、短尺の検地竿が、しっかりと握られている。
白骨たちは終わりの無い葬列をただ、いつまでも、続けていた。