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E=MC2

アインシュタインの質量とエネルギーの等価式「E=MC2」です。

E(エネルギー)=M(質量)C(光の速さ)2(変数)

エネルギとは質量に変数を組み合わせたものです。

つまり

「E=MC2」とは「エネルギー=物質」です。

先立つこと2000年前頃にインドで生まれた仏教にもそれに相応する考えがありました。
初期仏教では諸法無我と言われた事柄です。

この世にある形あるもの、つまり「諸法」はこの世に永遠に存在する唯一絶対的な存在の「我」ではなく、あらゆる縁によって生まれているというものを意味する言葉です

私たち人間を含む様々なものはいろんなもの事に影響を受けて存在している。つまり縁〈縁起)があって今があるということです。

無我の意味

仏教の「我」とは、「万物それぞれの永遠・不変の実体」のことを言います。

無我とは、私たちが普段目にしている、耳にしているものには
「実体という存在」はないということを言います。

縁起・因縁
人は端的には「肉体・意識・魂」と言われるもので構成されています。他の人達とは異なっている存在ととらえがちですが、それは違うというのが「諸法無我」です。

人は「唯一絶対の存在=我」ではなく、私たちの体は何兆もの微生物・細菌という別の生物からも成り立っていて、自分という存在は、親・祖先がいて、食べ物を食べて成長し、教育を受けて・出会があって今の自分があります。つまり「縁・因縁」があってここに存在しているといえます。

この世のどんなものも、色んな物事から影響を受けて存在している、つまり因縁があって存在していて、唯一不変で単体として存在するものはないというのが「無我」というのです。

諸法無我の考え方から「どんな存在も、単体で存在しているわけではなく、支え合っている」生存しているから、「物事すべては思い通りにならない」しそれ自体矛盾した存在でもあるのです。

諸法無我と諸行無常

諸法無我とよく似た言葉で、平家物語の書き出しで名高い、諸行無常という言葉があります。

諸法無我と諸行無常は違う言葉のようですが別な世界観から見た同じ言葉です。

諸行無常とは「どんなものも変化していく」ということです。同じで物は永遠にはないということです。

時間は残酷です。人も社会も、世界も宇宙さえもいつかは老いて滅亡に向かっています。
仏教は宗教ですからこれら存在するものは定性はない、変化することを受けいれよ。これが苦からの離脱だと教えます。

アインシュタインは、「もし神が遍在し、全能で、全知であるならば、全ての人間の行動、反応、志、感じ方は神の一部であり全体であるといっています。これが現在的にとらえた仏教的な概念でしょうか。

アインシュタインの等価式、E=MC2、この左辺は仏教でいうところの無。右辺のエネルギーは形がなく分割することができない。このエネルギーが展開することにより私たちが認識するこの現象界が生まれれる。

現象界とは物質世界である。つまり、エネルギーの展開により物質が生成される。換言すれば無が展開することでこの相対世界が生まれるのだ。

よって現象界は(絶対)無の現れに他ならず、般若心経でいうところの空と色のように絶対無と現象界は表裏一体の関係なのだ。
 

無から有を生み出す」の無や有は、二項対立の発想からの考えで、無は有を、有は無を否定することで、それぞれ存在している。老子は無について次のように言う。
「無」は、そこになにもないという意味ではなく、何者であるかが規定できないから無というのだ」

では、現代物理では何というのか?
無とは真空を指すのだろう。ただしまったく何もないのではなく、何かが常に生まれ、消えていく場なのだという。

具体的には電子と陽電子が対になって生成、消滅をする、これを繰り返している。
ですから絶対真空という場はないのだろう。
哲学で問題となる絶対無というのは、意識的な問題で、「まったく何もない空間は物理学的にはない」そう考えるのが一般的なようです。

つまり一見何もなさそうなところから新しく何かができる。これが宇宙の始まりに関係しているという物理学的問題であり、厳密ではないが意識の深層の問題なのであろう。。.

では自身に関しての意識的無とか行為的無とかと呼んだらいいのかその無とは何なのであろうか。
意識の対象物は依然として従来のままにあるのだが、意識の根源において、絶対的な無としか言いようのないものとしてただ在るという、永続的かつ不変で揺るぎない不動の自身の「絶対的境地」を指すのだろう。

普通の「無」は、「有」との対概念によって成り立っている存在(有)ですが、哲学者西田はあえて、この有無の対立を超えるというより包み込む基盤となるものを「絶対無」と名づけました。

ただ、西田は禅の人です。ですから「絶対無」としましたが、 言語で名づけると存在(有)になってしまいますし、それをあえて哲学的に言語で語ろうとするから、西田の哲学用語は理解が非常に難しくなります。



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