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北村さゆり展

朝食後地元紙に目を通していたら隣町藤枝出身の女流画家の個展がよく散歩に訪れる藤枝市の蓮華寺池畔藤枝文学館で開かれているとの記事があった。早速愛犬を後部トランクに乗せ出かけてみた。池の周りを愛犬を一周させた後再び車に戻り愛犬だけを車に残し展示会場に向かった。

北村さゆりさんは、1960年~静岡県藤枝市出身。1988年多摩美術大学大学院終了、1990年富嶽文化賞、1997年静岡新聞朝刊連載小説『悪友の条件/村松友視著』の挿絵担当、2000年東京春季創画展春季展賞、2001年文化庁芸術インターンシップ研修員、2003年静岡県文化奨励賞も受賞しているよし。

最初に彼女にインタビュー記事を紹介しよう。

何かを表現したかったんです。ですからはじめは油絵でも何でもよかったんです。高校の授業の芸術選択で第二希望で提出した美術を選択することになったのですが、その授業が面白かったんです。武蔵野美術大学の彫刻科卒の岐部琢美先生の指導を受けました。先生の授業はお手本や答えのない、まるで混沌とした人生でも語るかのような授業でした。でも、2年生になると芸術の授業がなくなってしまって・・・。運動部だったんですが、どうしても絵が描きたくて2年生から美術部に入りました。当時私は、木炭デッサンが好きで、その先生に「彫刻が向いていそうだけど、お前みたいなタイプが日本画を描いたら面白いんじゃないかと思うよ」と言われていました。その時はじめて、『日本画』という聞き慣れない言葉を耳にしました。

日本画は正座して描くもの。日本史の資料集に載っている作品のように、金屏風ばかりだと思っていましたからね(笑)。

ちょうどその頃、東京の美大予備校の通信教育コースを受講していまして、短期の夏期顔合わせ会みたいな講習会があり、地方在住の高校生達を美術館に案内してくれたんですよ。そこで福田平八郎と徳岡神泉の絵を見ました。すごくいい絵で、キャプションを見ると、技法は岩絵の具とか書いてありました。それが日本画との初めての出会いでした。ですから、本格的に日本画を勉強しようと思ったのは、高校3年の夏からなんです。その後予備校に通い受難の道が始まりました・・・私は三浪したんです。・・・・

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近くに生まれたとはいえ彼女の名は存じていなかった。ただ山本謙一の「利休にたずねよ」の表紙を担当していたというのに興味がわいた。

余り絵には才能がないので脱線するが千利休について少し話してみよう。この直木賞作家の話の展開はこのようである。・・・・

女のものと思われる緑釉の香合を肌身離さず持つ男・千利休は、おのれの美学だけで時の権力者・秀吉に対峙し、天下一の茶頭に昇り詰めていく。刀の抜き身のごとき鋭さを持つ利休は、秀吉の参謀としても、その力を如何なく発揮し、秀吉の天下取りを後押し。しかしその鋭さゆえに秀吉に疎まれ、理不尽な罪状を突きつけられて切腹を命ぜられる。利休の研ぎ澄まされた感性、艶やかで気迫に満ちた人生を生み出したものとは何だったのか。また、利休の「茶の道」を異界へと導いた、若き日の恋とは…。「侘び茶」を完成させ、「茶聖」と崇められている千利休・・・

利休は「侘茶」の大成者として日本文化史に燦然たる名望を遺す。では侘茶とは何なのであろうか。

端的に言えば利休が追求した草庵の茶こそまさしく「わび茶」であった。

室町期まではこの「詫び」という言葉には否定的な意味があったが利休の活躍した時代になると肯定的な意味合いとして評価され始めた。

享楽に流れるのをやめて、ひたすらに持たざる乏し茶道における「 わび」こそ華美を避けた、ぜいたくを許さない茶湯の根本精神であるべきであるとされるようになったのだ 。「 質素な生活を肯定的に受け入れ、それにれに徹するところから生じる閑寂素朴な趣」を言うのである。

このように自然質朴な美が時代の流れの中で茶道の展開とともに確立された美となり、その「 わび」は「 隠者の生活の中から見いだされてきたもっぱら物質的な享楽に流れるのをやめて、ひたすらに持たざる乏しさ、 慎ましさに精神の清純さを尊重するにことにあったのだ。

このように茶道においては 華美を避け、ぜいたくをさけた『 わび』が中心理念となったのだ。

利休の初期草庵ともいえる茶室は、露地の飛び石がにじり口で畳と庭を直結させることにより露地と茶室の一体化した茶の湯の場を成立させたのだ。

室町時代の贅を尽くした書院の茶室から狭小で清貧な空間に移った利休の志向した「直心の交」(じきしんのまじわり)の場は、亭主と客とが直に心を通い合わせる空間をめざしたものであった。体をかがめなければ入室できない躙口(にじりぐち)、丸太を用いた柱、土壁、壁の一部を塗り残して壁下地の木舞(格子状に組んだ竹)を見せた下地窓などが、朝鮮民家を模した草庵風の茶室の代表的な要素であった。これこそが利休の求めた華美を離れ質素な中に茶の湯が求めた本質の表現だったのだろう。

天下人が信長から秀吉に変わっても、利休は天下人秀吉のブレーンであり続けた。秀吉の茶の湯の指南役であった事は主が代わった事だけであるが、変わったと言えば由緒正しい武人としての出自を持ち、洗練された品性の持ち主、信長と比べ、秀吉のそれは卑しさと教養の低さであったのだろう。

ある日、利休は綺麗な朝顔が咲き乱れていることを秀吉に伝えて招待しますが、実際に秀吉が訪れた時に利休が見せたのは違っていました。咲き乱れる朝顔の花ではなく、それらをすべて切ってしまい、茶室に大輪を咲かせている一輪の朝顔だけだったのです。朝顔の咲き乱れる美しさを楽しみに訪れた秀吉に対して、利休は侘び茶の境地を説明するのみでした。元々、風来坊から成り上がった秀吉には、「わびさび」の精神は理解できません。そのため、当然、秀吉は大いに怒ります。その様なことが重なり二人の関係は破滅に向かい利休は切腹を命じられ果てます。

京都紫野大徳寺山門には秀吉が因縁をつけた利休の像が祭られている。

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