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芭蕉と哲学2

先回の芭蕉と哲学1において、経験に縛られない ( つまり純粋な ) 理性は、独自の思索をもたらす。そこに大いなるイデー ( 理念 ) の世界が広がると理念に少し触れた。

代表的な理念とは、「魂」「世界」「自由」「神」である。人間は理念なくしてはその存在価値を見出すことは出来ない。

理性的でありかつ、理念をもつがゆえに芸術や宗教の世界とも結びつくのでだ。
ただ理念は、そうした人間に希望をもたらすとともに、同時にそこにはある種の影がある。
それは、矛盾する二つの命題、純粋理性の 二律背反 である。

二律背反とは、同一の事柄について、ふたつの矛盾・対立する命題が同時に成立する事態をさす。
論理的には、ありえない事が人間の作り出した理念では、このありえないことが生じる。何故そうなのかということを論じたのがカント3番目に書いた自由(必然)、第三の二律背反は自然法則に基づいた必然的な因果関係のほかに、人間の自由に基づいた因果関係も存在する(定立命題)。
自由に基づいた因果関係は存在せず、自然法則に基づいた因果関係だけが存在する(反定立命題)という対立関係です。

寂びとは蕉風俳諧においては〈しをり〉〈ほそみ〉と並称される句の姿の目標である。
中世の〈幽玄〉〈ひえ〉〈侘〉(わび)の美意識を,芭蕉が自らの俳諧にそのまま生かそうとした,芭蕉俳諧の根本精神であり去来は〈さび〉を句の色であると説明する.

石神豊氏は芭蕉の句の哲学的分析において、何事の文章でも表象的に ( 事象として、あるいはイメージ的に ) 表されるが、その奥に広い 意味で思想があるという。

その思想を把握するために哲学的分析、あるいは哲学的 吟味が必要であり、俳句もまたその意味において例外でないという。

そこで俳句の詩文に具 体的に哲学的吟味を加えて、俳 句のもつ論理構造や意味を見出すことができれば、俳句がもっている不 思議な魅力を、広く理解するのに役立つのだ。

石神氏のいうところ、芭蕉を哲学的に理解するうえで役立つと思われるものとしてカント哲 学の見解、なかでも主著の『純粋理性批判』の中で、超越論的弁証論として 論じられている箇所の見解であるという。

そこには、自然にしたがった 因果関係、自由による因果関係という二つの見方が語られていて、命題分析に有益 だと思うと書かれている。

所謂「風雅」とは俳句(俳諧)の別名で私心を捨て大自然と一体となった永遠不変の境 地のことを「誠」という。
また物心一如「物 ぶつ 我 が 一 いち 如 によ 」も同様な意味である。

芭蕉の句として誰もが知る「古池や蛙飛び込む水の音」の句は「個の本質から普遍の本質への微妙な一瞬の転換」を示している という。
つまり、そこに芭蕉という人物のポエジー ( 詩心 ) があるというのだ。要は普遍的なものを個物の中にとらえることなのだ。 

芭蕉が作り上げた俳句が、現実の一瞬を描きながら、永遠の生を捉えているからである。

貞亭3(1686)年3月末の昼下がり、芭蕉とその弟子たちは、隅田川の畔にある庵の中に集まり、句会をしていた。その庵は過って私が住んでいたことがある門前仲町であったのだろう。それ故に私にとっては違った意味での時空を呼び戻す。

その句会の最中に、蛙が水に飛び込む音が聞こえた。
室中には、その光景は見えず、音だけが耳に入った。

芭蕉は「蛙飛び込む 水の音」と詠んだ。
それは現実の風景を描いた句であり、音も現実に聞こえたのだろう。

しばらく、芭蕉は上5を考えていた。芭蕉の心の中に古い池のイメージが浮かび上がってくる。
その池は、現実ではない。心である。
そのことを示すため「」という切れ字を用い、「古い池」とした。つまり、「や」は、7/5の部分蛙飛び込む水の音との断絶を示している。

芭蕉は、現実の世界を描きながら心の世界を浮かび上がらせるという、新たな俳句の世界を創造することに成功したのだ。

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