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豊臣秀吉ー戦国の野望

織田信長は、日本の絶対君主となった暁には、一大艦隊を編成して中国(支那)を武力で征服し、諸国を自らの子息たちに分ち与える考えであったという。・・・ルイスフロイス 日本史より

織田信長が本能寺で倒れた後、跡を継いだ豊臣秀吉は御館様と言い仕えた織田信長の遺志を継ぎ東アジアにおける”明国主導の国際秩序”を打倒して日本を中心とした新しい国際秩序を創り出そうとしていた。

そのことが家臣団の忠義心を自分へ向かわせ、豊臣家が将来にわたって盤石な日本国の柱石となることを切に望んだのだろう。

しかし実際おこなわれた遠征軍内部では、諸将の争いが生まれそれに絡む朝鮮出兵の疲弊が秀吉死後の権力が徳川家康に易々と移る原因ともなった。

このように朝鮮出兵が豊臣秀吉個人の浅はかな夢であって結果豊臣家は弱体化し秀頼母子は哀れ大阪城の炎のなかでで死んでしまうという歴史の表面だけを見てはならない。

朝鮮出兵が豊臣政権を弱体化させたとの説には一理ありますが、関が原も大坂の役も勝敗は時の運という一面もあり栄枯盛衰は世の習いでもあるのだ。

1586年5月4日の聖女モニカの祝日に、日本イエズス会副管区長ガスパル・コエリヨは大坂城に赴いた。

豊臣秀吉は謁見したポルトガル宣教師コエリョに向かってこう語りかけたという。

望んだ日本国統治が実現したうえは、実権は弟羽柴秀長に譲り、自らは専心して朝鮮とシナを征服することに従事したい。それゆえその準備として大軍を渡海させるために目下二千隻の船舶を建造するために木材を伐採せしめている。なお予としては、伴天連らに対して、十分に艤装した二隻の大型船を斡旋してもらいたいと願う。

ルイス・フロイス 日本史4

イエズス会のコエリョに対して、重装備を艤装済みの軍艦2隻の斡旋を依頼したのは前章ですでに述べた。この当時秀吉の心は既に『唐入り』です。

この章の本題は”織田信長”と”豊臣秀吉”の共通点から朝鮮出兵の動機を探すことである。

二人は当時の戦国大名の中で、図抜けて経済感覚が鋭かったということだ。

信長は、武を誇る家臣が大半を占める戦国期の織田家中にあって、出自が卑しいが抜群の経済感覚を示す豊臣秀吉に目をかけ重用して行きます。

楽市楽座を重点に自由経済を活発化させ城下の商品物流や火薬原料の硝石貿易が生み出す利益を独占した手法を目の前にした豊臣秀吉のパフォーマンスは、信長から直に教わったもの・身に着けたものとも考えられます。

信長秀吉二人の当時の野望は、東アジアでの経済面・貿易面に関し明国が主導する国際秩序を日本が握り直すということです。織田信長は同じ武家の棟梁として平清盛が中国との貿易で利益を上げて武家政権の定着に利用したことを念頭に入れていたのだと思う。

しかし信長の時代東アジアの貿易は皇帝専制で中央集権的中国に牛耳られていました。この現状を打破するためにはいつの時代でもそうですが彼の国へは派兵も辞さない軍事を伴う強い意志が必要と日本の為政者は常に考えていました。信長もその例に漏れません。・・・

と宣教師ルイス・フロイスは信長についての記しています・・日本史)。

当時の東アジアの貿易”の枠組みとは明の『海禁政策』でした。

貿易相手国に制限を加える明国に政治的プレゼンスを武力で強めて、日本の東アジアでの貿易を拡大させる方針が信長の根底にあった。

海禁(かいきん)」とは、海上の交通、貿易などに制限を加えることをいいます。
明は自国民の出国を禁止し、他国民の入国は、冊封による朝貢のために派遣した使節団に限定して、海賊の鎮静化、密貿易の厳正な禁止を図るための一手段としていました。

日本の海賊船、倭寇の防御策として通蕃(つうばん)下海の禁令を出し、
貢船とその積載する貨物の交易のみを許可し、民間の商船には、貿易を認めていませんでした。

明は、朝貢を行う国々に「勘合符(かんごうふ)」を渡し、そこに記されている片割れの文字を、明が持つ「底簿」と呼ばれる台帳の文字と合致させました。

簡単に云えば、明国は貿易を周辺国に関係させない、好き放題にさせないということです。

織田信長は日本の軍事的プレゼンスをして、東アジア貿易をわが手にしてその富を元に最終的に明国への軍事進出も視野に入れていたのです。

豊臣秀吉には、織田信長の忠実な部下として育ってきた経緯から後継者となった今大陸出兵には別な意図もあった。

秀吉の意図は信長と比べ可成り具体的である。中国沿岸から東南アジアにかけて展開する東アジア海域の中継貿易の主導権を中国から奪うことは信長と同じであるが、自らの軍事行動が、キリスト教布教を隠れ蓑として中国朝鮮の植民地化を狙うポルトガル、スペインの野望を排除ができると踏み、実際に計画し実施に移したことだ。

その具体的な手段が朝鮮半島と明の首都北京の占領だった。スペイン・ポルトガルの代わりに日本が中国を軍事占領すれば彼の国は東アジアの覇権を求めることは諦めるだろうし、日本の独立も保たれるだろうと秀吉は算段したのだ。

そもそも秀吉は明の軍隊は自国のそれと比べ弱いと思っていた。朝鮮から明へ出撃し軍事的一撃を与えれば、明が譲歩し目的が叶うと本気に思っていた。

「明は長袖(貴族)の国だから、戦国の中で鍛えてきた日本の軍勢には敵うわけがない」と檄を飛ばしていました。

実際朝鮮に出兵した大名たちは、朝鮮国内をすぐに制圧して平壌を占領します。日本軍は強い。秀吉もその感を強くしたのですが、そこへ明の援軍がやってきます。

明の援軍は、北方警備にあたる軍隊で、明を圧迫していた女真族との激烈な戦いを経験していたので、戦争の中で鍛え抜かれていました。そのため小西行長たちは、平壌を放棄して漢城近くまで戻らなければいけませんでした。

このため秀吉も、体面を保つことができれば、明と講和してもいいと考えるようになりました。朝鮮からの撤兵です。しかし、明は、秀吉を「日本国王にする」と言うだけで、他の条件は無視したことから、結局、戦いは再開し長期化することになったのです。

戦線は膠着し補給もままならず日本軍内部では仲たがいが始まります。撤兵がこれ以上長引けば豊臣政権の弱体化が始まりかねません。ちょうどそのような時、秀吉が亡くなりそれを機に潮が引くように朝鮮からの撤兵が始まったのです。

その後、漢民族の明は満州族の清に滅ぼされます。再興を願う明の遺臣は徳川幕府に援軍を求めますが徳川幕閣はこれを拒否します。何故か?

秀吉の朝鮮出兵は日本に犠牲だけを遺し何らの利益をもたらすこと無かったうえに古代から中国朝鮮を巡る紛争のたびに参戦を請われてきた。元寇襲来も然りである。両国は日本にとって疫病神と徳川幕閣が認識しだしたからである。

以後江戸末期まで大陸との外交を程々にして、深入りしなかった日本はお陰で300年近い世界に稀なる平和な時代を過ごせたのです。この教訓は専制国家共産党一党独裁の国中国,、何事にも正しいとする歴史改ざんも平気な韓国の今にも通じることである。



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