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小泉八雲の生涯ー9

焼津時代1,

小泉八雲は熊本第五高等中学校を辞した後、神戸クロニクル社の勤務を経て、1896年 9 月から東京帝国大学の講師として英文学を教えた。

八雲の神戸クロニケル社における執筆活動は半年近くのみであったが、40篇近くの論説を残した。これらは「神戸クロニクル論説集 Editorials from the Kobe Chronicle」(1894年)と呼ばれた。

そして東京帝国大学へ英文学の講師として招聘をうけたのだ。

彼は講議の最初にこのような訓話を残している。

「諸君は文学を創作する為に私の講義を聴いてくれなければならない。又仮に作家にならないとしても文学を鑑賞し、且つこれを愛好するだけの用意を持つてほしい。若し諸君が卒業後中学校や高等学校の英語の先生に
なるといふ目的で私の英文学の講義を聴かうとするならば、必ず諸君は失望するであらう。私は決して諸君の為に職業を与へる為の英語は授けないのであるから、故にこのやうな職業意識を持って英文科に入学した者があるならば速かに他の学校か又は法科に学籍を移す事を忠告する」といったような内容であった。

当時日本においては大文豪として知られていたが、その荘重な又神秘的な言葉を目前で肉声を通して聴かされた生徒たちは、皆大いに感激すると共に、各自は既に一かどの作家にでもなつたやうな自負と法悦とに小さな胸を躍らせたのである。

また彼の文豪夏目漱石が作家になる前小泉八雲の後任として英文学の講師に指名された時こんな不満を述べている。
小泉先生は英文学の泰斗でもあり、又文豪として世界に響いたえらい方であるのに、自分のような駆け出しの書生上がりのものが、その後釜に据わったところで、とうていりっぱな講義ができるわけのものでもない。また学生が満足してくれる道理もない。

このように東大出の秀才で英国に国費留学した夏目漱石が戸惑った逸話を残すほどに小泉八雲の有能ぶりが知られよう。

静岡県焼津市は私の生まれ故郷であり現在も生活している街である。

小泉八雲とその家族が焼津を最初に訪れたのは1897(明治30)年8月4日のことです。

当時東京帝大で教鞭をとっていた彼は、静岡県下の海岸を捜し歩いていた。アイルランドの荒海育ちで水泳を覚えた八雲は遠浅のような静かな海は好みではなかった。夏休みを海で過ごそうと、家族を連れての荒海探しの旅でした。
まず八雲一行は舞阪の海を訪れたのですが、ここは遠浅で海水浴には適しているが水泳には適さないと気に入りません。

その後、海の見える駅で降り、順番に見て行こうということになり、降りた最初の駅が焼津だったのです。焼津の深くて荒い断崖の迫る風景はアイルランドの海を彷彿させました。すぐに気に入った八雲は、海岸通りの魚商人・山口乙吉の家の2階を借り、以後、1899(明治32)年、1900(明治33)年、1901(明治34)年、1902(明治35)年、1904(明治37)年と、亡くなるまでほとんどの夏を焼津で過ごしました。

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