【谷文晁 】日本画 / 絹本・墨彩 彩色 査定 鑑定 買取 致します
谷 文晁
絹本・墨彩
◎谷文晁の芸術
谷文晁(たに ぶんちょう、1763年10月15日 - 1841年1月6日)は、江戸時代後期を代表する南画家であり、その多彩な画風と幅広い活動で知られています。本名は正安、通称は文五郎または直右衛門。号は文朝・師陵、後に文晁とし、別号には写山楼・画学斎・無二・一恕などがあります。
江戸下谷根岸に生まれた文晁は、祖父・谷本教が田安家に仕えた民政家であり、父・谷麓谷も田安家家臣で漢詩人として知られていました。このような文雅の家系に育った文晁は、幼少期から文学や芸術に親しみ、和歌や漢詩、狂歌などもよくしました。
12歳の頃、父の友人で狩野派の加藤文麗に学び、18歳の頃には中山高陽の弟子である渡辺玄対に師事しました。その後も北山寒巌から北宋画を修め、狩野光定から狩野派を学ぶなど、多様な画派の技法を習得しました。さらに、大和絵や琳派、円山派、四条派、朝鮮画、西洋画なども学び、古画の模写と写生を基礎に、諸派を折衷した南北合体の画風を目指しました。
26歳で田安家に奥詰見習として仕え、近習番頭取次席、奥詰絵師と出世しました。30歳のとき、田安宗武の子で白河藩主松平定邦の養子となった松平定信に認められ、その近習となり、定信が隠居する文化9年(1812年)まで定信付として仕えました。寛政5年(1793年)には定信の江戸湾巡航に随行し、『公余探勝図』を制作するなど、定信の命を受けて古文化財の調査や図録集『集古十種』や『古画類聚』の編纂に従事し、古書画や古宝物の写生を行いました。
文晁は自他共に認める旅好きで、30歳になるまで日本全国をさかんに旅し、行ったことのない国は4、5か国に過ぎなかったといわれています。旅の途次に各地の山を写生し、名著『日本名山図絵』として刊行しました。文化9年(1812年)に著した『日本名山図会』は、日本の代表的山岳89座の風景を90葉の画で表したものであり、当時広く親しまれ、後世の山の見方に影響を与えたとされています。
画塾・写山楼には多くの弟子が入門し、渡辺崋山や立原杏所などのちの大家を輩出しました。写山楼の名の由来は、下谷二長町に位置し、楼上からの富士山の眺望が良かったことによります。弟子に対して常に写生と古画の模写の大切さを説き、沈南蘋の模写を中心に講義が行われました。しかし、狩野派のような粉本主義・形式主義に陥ることなく、弟子の個性や主体性を尊重する教育姿勢でした。
文晁は鷹揚な性格であり、弟子などに求められると自分の作品でなくとも落款を認めたといわれています。また、画塾・写山楼では講義中、本物の文晁印を誰もが利用できる状況にあり、自作を文晁の作品だと偽って売り、糊口をしのぐ弟子が相当数いたとされています。これらのことから、おびただしい数の偽物が当時から市中に出回っていたと推察され、鑑定に当たっては落款・印章の真偽だけでは充分ではないとされています。
文晁は75歳の時に法眼位に叙され、文阿弥と号しました。天保11年(1841年)に79歳で没し、墓所は浅草源空寺にあります。辞世の句は「ながき世を 化けおほせたる 古狸 尾先なみせそ 山の端の月」と伝えられています。
谷文晁は、古画の模写と写生を基礎に、諸派を折衷した南北合体の画風を目指し、その画域は山水画、花鳥画、人物画、仏画にまで及びました。
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