猫と野菜畑(歌を離れて)
最も描きたかったのは猫の瞳だった。僕はすぐにでも猫を描き始めるつもりだったが、甘かった。師匠にどうしても認められなかったのだ。
「近道は回り道と心得よ」
理想の絵に近づくためには形から入るのが師匠の流儀だった。基本となる形、丸、三角、四角を会得しない限りは、いかなる絵も完成することはできない。勿論、猫だって。それにはまず筆を取る前に、歌うことから始めなければならないのだった。
こまめに丸かいて小皿にとろう♪
こまめに三角かいて小皿にとろう♪
こまめに四角かいて小皿にとろう♪
小腹が空いたら小豆を食べて一休み♪
小一時間の瞑想タイム♪
2年も続く厳しくも退屈な歌のレッスン。もう僕は待ちきれなかった。1日も早く、猫に近づきたかった。
「師匠。僕は早く進みたいのです」
「若い者は、すぐ近道を行きたがる」
「時間は無限にあるわけじゃない」
「まだ早い」
「もう待てません!」
「リフレインの先に真の創造はあるのじゃ。丸を描けない者が猫を描けるかな。あるいは雲を」
「僕はもっと創造的に描ける!」
「1つの仕草の中に落ち着きを得てこそ先へ進めるのだ。基本を省けば、早くは行けても遠くへは行けぬ」
「僕は自分の道を行きます」
「野心があるのだな」
「お世話になりました」
(僕は雲を描く。人を描き、街を描く。大好きな猫を描く)
閉じ込められていた意欲が、キャンバスの上にあふれ出した。ありふれた雲であっても、形になるだけで充実感を覚えた。時々、風に乗って流れてくる小さな歌が、頭上に停滞した。僕はロックでそれを追い払って、新しい絵の具を溶いた。少し時間を無駄にしたが、自由の尊さを学ぶちょっとした寄り道だったと思えばいい。届けたい絵が、無数に眠っている。
街の風景の中に猫を描いた時、僕はその影に躓いた。
(人参じゃないか)
猫を描いたはずが、人参になっていた。
「綺麗な人参ですね」
人から見る絵も同じように映っていた。
人参を描きたいと思ったことは一度もなかった。僕は繰り返し猫を描いた。授業料を払い猫の元でコーヒーを飲んだ。道行く猫に頭を下げてモデルになってもらった。猫の輪郭と仕草に近づいてイメージを吸収した。
「とても素敵な人参ですね」
僕の描いた猫はすべて人参にしかならなかった。
「ありがとうございます」
(人参を否定する機会を逃した)
「他の野菜も楽しみにしています!」
予定とは違っていたが、ほめられたり楽しみにされることはうれしかった。猫を描けば人参になる。アレンジを加えれば他の野菜にもなるようだった。いつしか初心を離れ、絵筆は人の期待の上を這っている。僕は猫でなく野菜そのものを描くようになっていた。
(こんなはずではなかった)
(猫の瞳を描くのではなかったか)
あの時の自分に、僕は胸を張ることができるだろうか。
だけど、今の自分を「好き」と言ってくれる人の気持ちはどうする……。
「とても美味しそうで元気が出ます」
野菜描きとして認知され、その方面からオファーも届く。
「ありがとう」
自分の好きと誰かの好きに挟まれて、猫は身動きできない。
思った以上に、僕は遠くまできてしまった。
猫の好きな人たちは、誰も僕の絵を知らないのだろう。