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生きているということ いま生きているということ

人が死んでいくのを隣でみる機会。

もうすでに死んでいる人の第一発見者になる機会。

ついこの間まで他愛のない会話をしていた人が、亡くなったという報告を受ける機会。

血縁者の代わりに人を看取る機会。

大切な人の死を泣き叫ぶ家族と共に過ごす機会。

そんな様々な死の機会に、日常的にふれる4年間を過ごした。

‪幾つの人の死と私の人生が重なりあったって、慣れることが、ない。

‪まだあたたかい体も、さっきまで動いていた心臓が止まるということも、死の瞬間に誰一人立ち会えないということも、最期にその人が会話したのが私になってしまったことも。‬

目を瞑ると思い出してしまう人がいる。

ふとした時に、涙が流れてしまうことがある。

勤務中は冷静でいようと、ピンと糸を張っている。
でないと、判断を誤ってしまうかもしれないから。
だけど、霊柩車を90度に頭を下げて見送った後、そのまま顔をあげられなくなることがある。

のこされた家族に、電話番号を渡されたり、「たまにうちに来て欲しい」と頼まれることがある。

全員の患者さん、家族にそうしてあげることができないが故に、断るほかないけれど、それは結局、そう思わせてしまう関係になってしまうほどに、その人の人生に患者看護師間の垣根を越えて踏み入れてしまう私の性格のせいだ。

看護師にむいてないかもしれないと思うことが何度もある。これは仕事だと、切り替えて働けたほうが何倍も楽なんだと思う。だけど、どうしたってできない。患者さんという名前ではなく、その人は、その人だから。

点滴を変えながら、お食事のお手伝いをしながら、お風呂で背中を流しながら、その人の、人生を聞いてしまう。

どんな仕事をしてきたんですか。

どんな暮らしをしてきたんですか。

どんな人生でしたか。

親戚に預ける他なかったペットが心配だから、早く退院するんだとリハビリを頑張る人。 

辛い治療の最中に「俺が死にそうだというのに、35にもなる息子がなかなか結婚しない、そうだあんた結婚してやってくれねぇか」と冗談言って笑う人。

「定年すぎたけど退院してからも実はまだ働きたいんだけどどう思う?」とこっそり相談してくれる人。

沢山の人の人生にふれた。

沢山の生き方を教えてもらった。

その人が病気やけがで入院しなければ出会えなかった出会いだから、患者と看護師は本来ならば、出会わないほうが良い出会いだ。

だけど、入院する時が来てしまった人がいるならば、その人の人生の、一番辛い時に出会う人間として、この仕事を全うする責任があると思い働いている。

春、入院してきた時は割と元気で冗談も言っていた人。

いつまで梅雨が続くんだとうんざりしていた頃に再入院となり、「俺、この夏を乗り切れないかもしれないんだってさ。ま、暑いの嫌いだからちょうどいっか。」とガハハと笑った。春より黄染が強くなったその顔は、笑ったときに見える歯が際立って白く見えるようになっていた。

余命を宣告された後の人の言葉は、重い。

本当は誰しもが生きているだけで、どれくらいかはわからない余命があるけれど、私も含めて、普段はそんなことを忘れながら生きている。

だけど、「あと数日の命です」と告げられた人は、あと数日なんだと理解した上でその数日間を過ごさないといけない。

日に日に弱っていくのが分かった。

積極的治療の選択ができない人だったから、
「それなら家でのんびり過ごすわ」とお家に帰る選択をした。「定期通院で病院に来た時には、病棟にも顔出して元気な姿見せてくださいね」と約束したけれど、あれから一度も会っていない。

暑いの嫌いだって言っていたあの人。今年は梅雨が長すぎたから、実際に凄まじい暑さだったのは1ヶ月くらいだったよ。ちゃんと元気にしているの?

「緩和ケア病棟で働いたことある?」
別の患者さんに聞かれた。
ないです、と答えると、「そう。」と眉が下がった。

「どんな場所か気になりますか?」と聞くと
「僕はいずれ、そこにいくからさ。もう積極的な抗がん剤の治療はできないよ。」とつぶやいた。

「夜が長くてね。眠れないんだよね。」

夜勤のたびに、お部屋でお話をよく聞いた。

「眠れないということは、今の僕にとってみたら悪いことじゃないんだよ。生きてるということだから。
死んでしまえば、もう眠れない夜を過ごすこともないんだからさ。」

その方は、数年前までお医者さんをされていた。
まさか、自分がこうなるなんて思ってもいなかっただろうに。

いつもその肩に手を添えることしかできないけれど
「聞いてくれてありがとうね。」と言い、電気を消して眠りにつく姿を見ると、この方の辛さも苦しみも痛みも迷いも、吐き出したくなった時にいつだって吐き出せる場所でいようと思った。

正直ちょっと面倒だった患者さん。
一度文句を言い出すと、もう全てに対して苛々して、当たり散らす方だった。多忙な業務中、うまいこと機嫌をとるような形で接してしまうこともあった。

そんな方と、久しぶりに長く話す時間が作れた日があった。思う存分の愚痴をすべて言い切った後、ポツリポツリとこんな話をし始めた。

「僕はこれまでの人生なんかよりもこの先の人生を大切にしたいんだ。こんな所にいられないんだよ。もう82だよ。これまで生きてきた時間より、この先の残された時間のほうが短いんだよ。こうやって何もしていない時間に、いろんな人のことを思い出すんだ。学生時代、あの可愛かった子にもう一度会ってみたいなぁとか、テレビでうつるアメリカのあの道をそういえば昔歩いたなとか。僕は多分、残された時間の整理をし始めたんだと思うんだ。だから、こんなところにいられないんだよ。早く退院したいよ。もう、人生があと少ししかないとわかっているからね。」

その人の苛立ちの理由は、ここにあったのかもしれない。この人には、人生があと少ししかないと自覚できる強さがある。それは、なによりも立派な強さだと思う。私だって、1秒後に死ぬかもしれない、何があるかわからない、もしかしたらこの患者さんよりも私の方が早く死ぬ可能性だってある、あると言葉では言えるけれど、心ではそんなことないと思ってしまっている。死ぬことに臆病になっている。私が80になった時、死を割り切って、さらに受け入れた上で、こんなふうに前を向けるだろうか。

この人がただただ怒りっぽい性格だと思っていた自分を恥じた。どんな人とでも対話をする大切さを、この患者さんに、教えてもらった。

元気に退院していったこの患者さんの、残された人生の使い方を、見てみたいなと思う。また散々愚痴も聞くからさ。そのあとでいいから、その人生の続きを聞かせてほしい。きっと、こういう人こそ、本当の最期が来たときに、「僕の人生に後悔はないよ!」って、笑って死ねるのかもしれないな。

退院が決まっていて、モニターもつけず、お薬も自分で飲めていた人が、トイレで倒れているのを発見した。

まだあたたかかった。
呼吸は止まっていた。
脈も触れなかった。
何度名前を読んでも、目を開けなかった。

心電図をつけると波形は出なかった。
胸骨圧迫を中止した。
その人が、亡くなった。

トイレで一人で、亡くなった。

亡くなった後に発見したという事実に、苦しくなった。何かサインはなかったか、もっともっと頻回にお部屋に行くべきじゃなかったか、何度も何度も自問した。

その日、夜中の2時だというのに電気がついてたのでその人のお部屋に行ってみたら、そんな時間に歯磨きをしようとしていた。「なんでこんな時間に歯磨きするんだろう」と思いながら、でもなんとなく離れちゃいけない気がして、ベッドに戻り眠るのを見るまで一緒にいた。普段なら、おやすみなさいと部屋を出るところだが、なぜだか15分ほど、その人がちゃんと眠るまでの間を、そのお部屋で過ごした。

電気を消す前に「長い間、お手数かけて申し訳ありません。ありがとうございます。」と言われた、この言葉が最後となった。

退院も決まっていたわけで、主治医も予期できない死だったと言っていた。主治医に「もしこの人が退院していたら、退院先の一人暮らしの家でこうして亡くなっていたかもしれない。独居で身寄りのない人だからもしそうなったら最悪の事態であれば、発見が死後1ヶ月後とかになるかもしれなかった。だから逆に運命としてはよかったんだと思う」と言われた。でも、それでも、この人の人生最後の場所は病院のトイレだったという、その事実は変わらない。そして、私がこの人が人生の最後に会話をした人となってしまったという事実も変わらない。

「帰ったってやりたいことなんかないですよ」とよく言っていた。でも、ある時、学生時代は土手でギターを弾いていたんだという話をしていた時は、とても嬉しそうにこれまでにない笑顔で話していたのをよく覚えている。あの時代はロックが散々流行っていて、今みたいにここで演奏しちゃいけないとかそんな決まりはなかったから、思う存分外でギターを弾いていたと。隣で弾いていたバンドが急に有名になることもあったんだと。私が好きなビートルズは「あんなのロックじゃない」と否定されたけれど、それでもこの人が楽しそうにギターの話をするのを聞いているのは楽しかった。その人にとって、痛みに悶えながら辛い治療をしていた最中だったから、余計にそう思った。

もう、あんなふうに楽しそうにお話するのを聞くこともないんだなと思うと、とても辛い。

この会話が、誰かの人生の最後の会話となることが、あるんだなぁと、実感として胸に落ちた。

どうしても辛かった。

心の整理がつかなくて、20歳のときに持っていた『なんでも書いていいスケッチブック』を久しぶりに開いてみた。

するとそこには「私の強みは言葉だと思うんだ。だから、患者さんが悲しいとき、言葉を沢山処方したい。医者じゃないから直接治す薬は処方できないけれど、でもその代わりに心を癒す言葉を、たくさん処方したい。」と、そう書いてあった。

私は看護師の免許をとるずっと前から、おんなじことを思っていたんだなぁ。実際は、反吐が出るほど忙しい。理不尽なことも沢山ある。辞めたいと思うこともある。だけど、心のどこかで、この仕事につけて良かったと、少なからず感じている面もある。

これだけ発展した医療の中でも病気には敵わないことの方がまだまだ多い。治らない病気なんて山程ある。

当人の患者さんたちはもっともっと辛い。そんな、気持ちも落ち込む療養生活の中で、一瞬でも、喜びや楽しさを感じてもらうための関わりができるのが、看護師の力なんじゃないかなぁと思っている。

大動脈解離で絶対安静の制限がかかった患者さんがいた。術後も厳しい降圧管理で緊急オペ後2日は体も拭いちゃいけないというシビアな状態だった。

50代の女性だった。
匂いも自分でわかるだろうし、精神的にも辛かったと思う。せめて手足だけでもと、温かいタオルで包んだら、初めて、笑顔で気持ちいと言った。
「温かいタオルで体を拭くって、こんなにも気持ちよかったんだね」って。

そんな、ほんの少しのことなんだと思う。だけど、そのほんの少しが積み重なって、自分が生きていることに喜びを抱いて、そしてその喜びが重なって「まだまだ生きたい」と思ってもらえるような希望になるんだとしたら、看護師の存在意義はそこにあると思う。

苦しい時、誰かのぬくもりに安心感を抱くのも、痛い時、1人じゃ頑張れなくても誰かの支えで乗り越えることができるのも、ぜんぶ、人本来のニーズなんだろう。

そういうひとつひとつのニーズに応えられるような人でありたい。看護師である以前に、人として、そういう人でありたい。時々、忙しさにかまけて、そういうことを忘れてしまう時があるから、自分を律するという意味で、自分なりに、死と向き合ってきた時間を思い返した。

様々なことを思い返したけれど、全部結局、あの方々の、生き様を思い出していたように思う。生と死は、いつだって隣り合わせなんだよなぁ。死ぬということは、生きるということなんだよなぁ。

生きているということ。
いま、生きているということ。

谷川俊太郎の『生きる』という詩を思い出す。
誰もが国語の教科書で一度読んだことがあるかもしれない。

生きているということ
いま生きているということ
それはのどがかわくということ
木もれ陽がまぶしいということ
ふっと或るメロディを思い出すということ
くしゃみをすること
あなたと手をつなぐこと
生きているということ
いま生きているということ
それはミニスカート
それはプラネタリウム
それはヨハン・シュトラウス
それはピカソ
それはアルプス
すべての美しいものに出会うということ
そして
かくされた悪を注意深くこばむこと
生きているということ
いま生きているということ
泣けるということ
笑えるということ
怒れるということ
自由ということ
生きているということ
いま生きているということ
いま遠くで犬が吠えるということ
いま地球が廻っているということ
いまどこかで産声があがるということ
いまどこかで兵士が傷つくということ
いまぶらんこがゆれているということ
いまいまが過ぎてゆくこと
生きているということ
いま生きてるということ
鳥ははばたくということ
海はとどろくということ
かたつむりははうということ
人は愛するということ
あなたの手のぬくみ
いのちということ


私は、この詩が好きだ。
谷川俊太郎本人は、この詩のことを「よくできた詩とは思っていない」と言っていた話を、どこかで読んだことがある。だけど、私はこの詩が好きだ。人間くさくて、なにより、生きるというかんじがする。

20代の今の私にとっての生きるとは何か。

そう考えてみたときに、リスペクトを込めて、私の毎日に、この詩を落とし込ませてもらおうかという思いに至った。勝手にごめんなさいと先に謝っておきたいが、愛ゆえということで、ご容赦願いたい。


生きたい meme

生きているということ
いま生きているということ
新しい靴を買った時の嬉しさ
雪が降りそうな夜のワクワク
心にグッとくる音楽に出会ったときのこれだというかんじ
トンネルを抜けた先に見える青い海の感動
江ノ電に乗りたいなという夢

生きているということ
いま生きているということ
それはGoogle map
それはジブリ
それは満点の星空
それは上手にギターをかき鳴らせているわたし
それは東京タワー
キラキラしたものをずっとみていたい心
そして
自分がしたい行動をちゃんとすること

生きているということ
いま生きているということ
年始に人に胸をはって言えないようなことはしないという誓いを立てたことを時々忘れてしまうこと
昨日掃除したはずの床にもう埃が落ちていること

生きているということ
いま生きているということ
いま電車で隣の人が読んでる本がおもしろそうなこと
いま家族が不自由なく暮らしてくれていること
いま友達からくだらないLINEがくること
いま太陽のにおいのするベッドで眠ること
いまセミの声が少し小さくなってきたこと
いまが昨日になるということ

生きているということ
いま生きてるということ
住みたい場所に住めること
会いたい人に会えること
聞きたい声を聞けること
撮りたい写真が撮れること
今日も生きているということ
いつか死ぬんだということを忘れてしまうこと
忘れてしまうくらいに平和だということ
こんなにもすてきな世界だということ
今日も生きたいということ



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最後まで読んでいただき、ありがとうございました。 このnoteが、あなたの人生のどこか一部になれたなら。