[勝手流]神話・民話解釈 欲しがっているものを投げつける
[黄泉がえり]
黄泉の国でイザナミの変わり果てた恐ろしい姿を見て、イザナギは逃げる。
恥をかかされたと怒ったイザナミ配下の追手が追いかけてくる。
追手に追いつかれそうになるたびにイザナギが投げつけたものは、次々に美味しそうな食べ物にかわる。野葡萄、タケノコ、桃の実。
武器にはならない。
このストーリーは、
「脱出する時には戦うのではなく、追手に好物を投げるとよい」
と教えてくれているのではないか?
卑近な例で申し訳ないが、ややこしいことを言ってくる相手に対し、好きそうな芸能ネタを振って煙に巻く名人を私は知っている。
[山姥]
三枚のお札という話もある。
自分を殺して食べてしまおうという山姥に、逃げながら小僧が投げつけたのは三枚のお札だ。
なぜ山姥は恐ろしい山姥になってしまったのだろう?
そこにはきっと訳がある。
山姥は恐ろしいけど救いを求めている。
お札は山姥に、こうなってしまった原因と、本当はどうありたいかを問いかける。
小僧は逃げる時に山姥に自省の機会を投げつけているのだ。
これの応用は日常生活では思い当たらない。
自分の身の安全は確保する努力はしながらも、相手のためにも祈るということであろうか?
[豆まき]
節分の時には鬼に豆を撒く。
豆には魔を滅するという意味がある。
鬼に豆を投げつけるのは
鬼虐待と思ってしまいそうな世の中であるが、私はいいたい。
断じてそんなことはない。
鬼は喜んでいる。
自分の恐ろしい力を持て余して
どうしようもないでいるのだ。
誰もコントロール出来ないし、
自分でも制御がきかないでいる。
豆くらいで死んでしまうような鬼ではない。
恐ろしがってほったらかしにされるより、豆を投げつけてもらえるほうがどんだけ嬉しかろうか。
「鬼は外、福は内」
あの言葉は
弱き豆の力でもって、
誰も注意してくれない鬼を喜ばせ
鬼を転じて福に変え
家に招き入れるという
良き言葉であるように
私は感じる。
応用として思い浮かべるのは
スナックのママが
酔ってお行儀が悪くなった客に
「今日はなんだか飲み過ぎじゃない?いつものあなたと違うわ。この一杯で終わりにしてまた来てちょうだい。」
みたいな感じかな。
[結論]
以上の妄想から、私は相手を攻撃するのではなく、相手の欲するもの、または相手は知らずとも相手が必要としていそうなものを投げるのが良いように思う。
私の好物の一つのうちにプリン🍮
がある。面白い話も好物です。