私はナイーブな雑食主義者~「肉食の哲学」
先日読んだ本で、肉食ということについて深く考えさせられた。
それで、そもそも人間にとって肉を食べるとはどういうことか、ちょっと考えてみたくなり、今回はこの本を手に取った。
「肉食の哲学」
印象に残った箇所を抜粋しながら、紹介したい。
著者はまず「ベジタリアン」の態度を批判する。ここで批判の対象としているベジタリアンとは、いわゆる動物愛護の観点で肉食怪しからんという人たちのことで、彼は「倫理的ベジタリアン」と呼ぶ。
ヒトが十分に動物であるには、生そのものには値がつかないにしろ、けっして代償なしには済まされないという十全な認識が必要なのだ。別の言い方をすれば、自分を動物性を超えた高尚な存在と見做し、自らの条件の根源的性質を成すものと道徳的に決裂するよりは、動物を食いつつ、自らの動物性に不可欠な妥協を私は受け容れるということだ。動物を食うことは、他の動物たちと動物性という重荷を分け合うことに帰するのである。
肉食とは単なる残虐行為ではなく、動物愛護の観点とは別次元の話である。それは相互性の関係にあるという。その肉食を拒否するということは、人間に内在する動物性を忌避することであり、それこそ不遜な考えであるというのだ。
ベジタリアンが表明する肉食の嫌悪は、根源的には動物の嫌悪-他人にも、たぶん自分自身にも周到に隠している嫌悪-である。彼らが嫌っているのは肉以上に、ヒト自身と動物なのだ。別の生物にどんな苦痛も与えないヒトなど、端的に言ってヒトどころか動物を超越している。なぜなら動物性の根本となる原則はまさしく苦しみつつ苦痛を与え、脅かされつつ脅かし、嫌悪しつつ嫌悪されることだからだ。
肉を食わないということは、人間を超動物的な存在に奉ることである。
動物はぬいぐるみではない。他の動物との関係はもっと生き死のやり取りをする断ちがたい差し迫った関係なのだ。
ベジタリアンの動物憎悪は倒錯したかたちをとる。この憎しみを自分が動物に抱く愛によって正当化しているからである。ベジタリアンとは、虐待する母親と同じ意味での虐待する動物である。その誤った愛は、愛していると主張するものの死あるいは去勢を望み、無害で頼りないぬいぐるみへと取り換えたいのだ。
この表現もなかなか辛辣である。たかがベジタリアンくらいで言いすぎでは?とも思う。しかし、世のベジタリアンも先鋭化してきており、フランスなどでは肉食店やレストランがベジタリアンに襲撃されたりするという。いやはや、なんとも極端な言動である。
ここで私はいかなる場合も、同情の倫理や平等の倫理を採用しない。私が採るのは生の共有の倫理という立ち位置なのだ。この文脈において、苦しみという問いはまったくの二次的なものだ。動物を苦しませるのが正当なことだからではなく、重要なのはその先にあることだからである。
つまるところ、動物に対する同情から肉食を語るべきではないというのが筆者の意見である。
先進国の過剰な肉食も限界のひとつで、工業的畜産の脅威とそれによる環境破壊の要因となる。倫理的ベジタリアンの態度が支持できないのは確かだとして、逆に今日政治的ベジタリアンの態度は、生きる上での必要として避けられないものである。機会を限定し儀式的に肉食をする政治的ベジタリアンになることが解決策となるのではないだろうか。少なくともわれわれは、この道を進んでみることも可能だと思われる。
ここで「倫理的ベジタリアン」に対して言及している「政治的ベジタリアン」というのは、現代の肉食産業の仕組みそのものが商業的にも環境的にも破綻寸前である点を問題視している立場のベジタリアンのことだ。
欧米は日本人の倍以上の肉を消費している。今後途上国が同じように肉を消費し出したらどうなるか。また畜産による環境汚染も深刻であるし、家畜飼料に混入させている抗生物質も耐性細菌を生み出す原因となっている。
たしかにこのような事態を目の当たりにすれば、肉食もう少し控えてもいいかなとか、大豆ミート食べてみようかな、と思わないでもない。
それにしてもこのような二極論になりがちなのは、欧米の特徴なのだろうかね。
野菜もおいしいし、肉も魚もそれぞれにおいしい。生かされていることに感謝して、おいしく頂けばいいのにと思うのだが、それはナイーブすぎるのだろうか。