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それは私でありえようか?『西田幾多郎<絶対無>とは何か』永井均

永井均とは

永井均とは日本大学の教授であり、哲学者。「独在性」という概念を提唱し、日本の哲学界でも独自の地位を築いている。ちなみにツイッターもやっている

『西田幾多郎<絶対無>とは何か』

本書は西田哲学を使って永井が独立に哲学をしたとも言うべき内容だ(永井が哲学者をタイトルに入れて書く本はどれもそうだが)。彼は、単なる解説書ではなく、自分の哲学をするための燃料として西田を利用している。そして、彼にはそれしかできない。※ちなみに付論を加えた文庫版もあるので、これから読もうという方はこちらがお勧め。

本書を読めば、西田幾多郎をまったく知らない方でも西田哲学の核心へとまっすぐに導かれる、と私は確信するが、それは実は西田の核心ではなく私(永井)の核心なのかもしれない。それらを区別することは私にはできない。(8頁)

本記事では、以前紹介したデカルトの『省察』と関連の深い、第一章「純粋経験――思う、ゆえに、思いあり」を紹介する。

それは「私」でありえようか?(西田vs.デカルト)

デカルトは徹底した疑いの果てに、確実に存在するものとして「私」を発見した。考える主体としての「私」である。

一方、西田は『善の研究』において、懐疑の果てに見出されるものは「純粋経験」と論じた。「純粋経験」とは、直接経験される事実であり、デカルトの文脈で言えば、「考えていることそのもの、疑っていることそのもの」ということになる。これらは無いという可能性がそもそもないのだった(だって、ほら、現に存在しているでしょう?)。

デカルトが「われ思う、ゆえに、われあり」と主張するのに対して、西田は「思う、ゆえに、思いあり」と主張したことになる。彼らは同じプロセスを経て同じ風景を見ていたはずなのだが、なぜ結論が異なるのだろうか。

永井はその原因の一つとして、「使用する言語の制約」を仮定する。

長いトンネルを抜けると

この手の議論でよく引き合いに出されるものとして、川端康成の『雪国』がある。『雪国』の冒頭の英訳が、日本語の意味を捉えきれておらず、英訳を経ると意味が変わってしまうのである。

以下に、「日本語(原文)→英訳(サイデンステッカー訳)→日本訳」と並べてみる。本来であれば、最初と最後で同じ日本語の文章にならなければならない。

【原文】国境の長いトンネルを抜けると雪国だった。

【英訳】The train came out of the long tunnel into the snow country.

【英訳→日本訳】列車は長いトンネルを抜けて雪国へ入った。

太字で示したとおり、英訳は主語が列車となっていることがわかる。だが、原文には主語が存在しない。

英語は主語の措定を強いる(そして、デカルトが使ったラテン語も同様だ)。一方で、日本語は非人称で文章を完結させることができるのだ。

ちなみに、西田の純粋経験をあえて英語で表現するならば、天気や時刻の表現でおなじみの形式主語を使い、「It thinks.(考えがある)」とでもなるだろうか(それでも主語は消せないが)。

西田は懐疑の果てに見いだされるものとして、「純粋経験」という非人称的な表現をとり、一方、デカルトは考える主語的な実体として「私」の存在を確実なものとした。その違いを日本語とラテン語の文法に求めることは、たしかにありそうな筋である。

しかし、永井はこの観点を言語的な違いだけはなく「私」が持つ意味にフォーカスしてさらに掘り下げていく。

それは「私」でもありえる

確実に存在するのは、「思い」だろうか、「私」だろうか。永井はその二つは同じことだと言う。

というのも、私であれば必ず思い、思えば必ず私であるからだ。

「今まさに思っているもの(=純粋経験をしているもの)は何だ?」というクイズの答えは自ずと「私」であり、逆に「「私」とは何だ?」というクイズの答えは自ずと「今まさに思っているもの」なのだ。

「思い」の存在から「私」が確実に推論できる。このことがデカルトの証明を陰で支えている。

だが、実はデカルトは「私」の発見を推論とはみなしておらず直接的に知られるとしている。直接的に知られるものとはまさに「純粋経験」なのだが、この区別のなさがデカルトが過失犯=うっかり者である証左となっている。

デカルトにおいては「純粋経験」と、推論による「私」が渾然一体となって理解されている(言い換えれば、「純粋経験」から「私」を導く際に暗に飛躍をしている)。

デカルトは「私」がもつ意味を、言語的な劣勢もあって無自覚に使い、「思い(純粋経験)」と「私」を分離できなかった。一方、西田は言語的な優勢も手伝って、「思い(純粋経験)」と「私」とを分離することに成功したのだ。

もちろん、デカルトが誤っているというわけではない。自覚がなかったにせよ、彼の推論には一定の理がある、という訳だ。

西田はデカルトの推論を徹底的に拒否する。このことが、デカルトでは起こりえないある困難を招き入れてしまうことになるのだが、それはまた別の機会に。

※参考文献:『西田幾多郎 <絶対無>とは何か (シリーズ・哲学のエッセンス) 』永井均 NHK出版(2006)


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