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ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』のエッセンス

『論理哲学論考』は難解だと言われているが、論旨の中核はそこまで複雑ではない。そこで本noteでは、概要でもなく、感想でもなく、本書のエッセンスを列挙する。これがわかれば、本書が読みやすくなるかもしれない、というものだ。そして、一番シンプルな解説だとも言える。

  • ウィトゲンシュタインは、有意味な言語表現と、無意味な言語表現を区別した。有意味な言語は、世界の内で起こる事実を記述しえるが、無意味な言語は記述しえない。無意味な記述が「語りえぬもの」である。

  • 事実とは、例えば「多摩川の上流で雨が降った」などと記述されるような、この世界の内で実際に起こることである。

  • 実際に多摩川の上流で雨が降っていた場合に、「多摩川の上流で雨が降った」と記述すれば「真」であり、「多摩川の上流で雪が降った」と記述すれば「偽」である。重要なポイントは、「偽」である「多摩川の上流は晴れていた」という記述は決して無意味ではなく、有意味である、ということだ。多摩川の上流が晴れていたことは、もしかしたら起こりえたことであり、起こりえた記述は世界を記述する可能性を有し、それら有意味なのである。

  • したがって、有意味な記述の総体は、世界内部に発生するすべて事実を記述しえる科学的な記述と呼ばれる。あらゆる事実の可能性を含むため、実際に起こった事実の数をはるかに超え、その数は膨大である。

  • 一方、無意味な記述とは、世界の事実を可能性としても記述しないものである。例えば「神が存在する」などである。神が定義として、この世界の内部に存在しないとすると、神がこの世界の事実として登場する可能性はまったくないため、無意味だとされる。裏から言いかえるならば、有意味な記述は「真」か「偽」か必ずどちらかに決定されるが、無意味な記述にはその可能性がはじめから用意されていない。

  • 神などの、世界を超えている世界の外の存在者に対する記述は、事実を記述しえないため、無意味とされる。

  • ただし、神のように世界の内に登場しないながらも、この世界全体を善くしたり悪くしたりするように世界に関係するのならば、それは「超越的」ではなく「超越論的」な存在である。

  • ウィトゲンシュタインによれば、「この椅子はいい椅子である」の意味は二つあるという。一つは、機能的に座り心地のよい椅子であり、世界の内部の事実としての表現(例えば、脚の高さが●●㎝)に言い換えられる。

  • 一方、機能を超えた善さ「この椅子がどのような形状で、使い勝手が悪くても、絶対的に善い」と言いうる善さがあり、これをウィトゲンシュタインは「倫理」と呼ぶ。この善さは、世界の内部の事実として記述しえない(例えば、足の高さや色や材質などに還元できない)ため、無意味な記述である。「倫理」が語りえぬものの一つ目である。

  • 世界の外について語る形而上学も世界の内の事実を記述しないのであれば、無意味な記述である。その基準によれば、ウィトゲンシュタインの『論考』も無意味である。もちろん『論考』だけは、特別に許される唯一の形而上学なのだ。

  • なお、あいさつや、小説の中のセリフなども、論理哲学論考のウィトゲンシュタインの前提だと無意味な記述となってしまう(このような前期ウィトゲンシュタインの射程の狭さが、後期ウィトゲンシュタインの研究課題へとつながる)

  • もう一つの語りえぬものは「言語」である。

  • ウィトゲンシュタインにとって、言語とは世界を象徴として写し取る機能を有するものである。たとえるならば、音と楽譜の関係である。

  • 音は長さ、高さ、強さを有し、楽譜はそれら三つの要素を、別の形に写し取る。音符の形状が長さを表し、五線譜の上に書かれた音符ほど高くなり、あらゆる強弱記号が強さを示す。

  • 「写し取る」ことが意味をなすには、同じ「形式」をもっていなければならない。したがって、世界の事実と、言語は同じ形式をもっていることになる。両者が共通してもっている形式を「写像形式」と呼ぶ。

  • この「写像形式」の正しさを、正当化したり証明することはできない。

  • 「多摩川の上流で雨が降った」という文は、多摩川の上流で雨が降ったという事実を写し取る。しかし、この文と事実との結びつきを正当化することはできない。それを正当化するには「『多摩川の上流で雨が降った』という文は、多摩川の上流で雨が降ったという事実を写し取る」という文が必要になるが、結局のところ、二重括弧に入っていない文が正当化されないまま残ってしまう。すると、無限に文をつなぎ続ける必要があり、正当化は終わらない。

  • 言ってみれば、事実は必ず言語によって表現され、言語の正しさを外から証明する生(なま)の事実というものは存在しない。私たちは言語によって必ず思考する。あらゆる生の事実と思われるものは、すでに無根拠の言語によって前もって思考されていなくてはいけない。言語の正しさを根拠づけるような言語外の事実などは存在しない。したがって、言語の形式や意味は、世界の事実を語らずに、逆に写像を可能ならしめる条件なのである(=先験的)。

  • 世界の限界が私の限界である。ゆえに、世界の言語の限界は、私の言語の限界である。他者は単に別の世界である。私の世界の中に他者は存在しない。世界の中に別の世界は現れない。

  • 私の世界の中に私の自我は現れない。眼球が視野に属さないように、主体は世界に属さず、世界内の一部ではない。ゆえに、私については語ることができない。

  • 三つ目の語りえぬものは「私」である。

参考文献
ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』野矢茂樹訳 岩波文庫(2003)
永井均『ウィトゲンシュタイン入門』ちくま新書(1995)


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