かんそうぶん 「改良」/遠野遙

丈の長い靴下が好きだった。まだ幼く白く細い脚のラインを強調してくれるからだった。そしてなによりぼくの子供とは思えないほどのすね毛を隠せるからだった。

二歳のときまで、頻繁に「女の子?男の子?」と尋ねられた。健忘期だというのに、旅館の女将さんから「お嬢ちゃん」と言われたことは記憶に残っている。反対に、ぼくが男の子として扱われた?記憶がほとんどない。だからか、ぼくの幼少期のセルフイメージは女の子だった。鏡で自分を見るまで、ずっと自分はかわいい少女になれるのだと信じていた。でも鏡を見てしまうと思いのほか男で、当然なんだけど、でもぼくは女の子だと思っているから、どこまでも続くギャップに苛まれ、いつからか鏡を見ることは少なくなり、中学生になって完全に鏡と対面することは無くなった。これは初めて女装メイクをした大学二回生まで続いた。

小学二年生のときに、魔法少女になる遊びをしていた。当時、しゅごキャラ!というアニメがマイブームになっており、地元の人影の少ないところでヒソヒソと変身していた。正体がばれてはいけないから。

ぼくもトンチンカンではないので、自分は男であると生物的にも精神的にも思い知らされて受け入れる過程はあったが、それは地獄としか言い様がなかった。それは現代風に言えば、性自認は男だし生物学的にも男だが、セルフイメージとしての女の子がずっとまとわりついているといった気色悪いものだった。だから自分に向かって気色悪いと言うことはたぶん他の人よりも多かったし、今も少なからず残っているので、これからも多いと思う。

本作品の中で綺麗な女性に憧れながら、自らの劣等感に苛まれる主人公はそんなぼくの中で眠っていた以上の感覚を呼び覚ました。というのも、ぼくはこれを読むまで、自分がこういった拗れを抱えていたことすら気が付かなかった。

存在そのものが綺麗である女性に好意を向けられること自体、恐怖。
女の子になれなかったぼくが女性に好意を持たれること自体、恐怖。
それでも性的対象は女性で、女体を見ながら自慰をするこの身体が、なによりも恐怖。気色悪い。思春期に抱える性の目覚めを遙かに超える気持ち悪さが、人生単位で付きまとっている。

自分は男だ。言い聞かせて活動するシーンは多い。男だから先導しないと、男だから力仕事はしないと、男だから女の子よりは強くないと。そうしないと気色悪い。ぼくはすぐにわたしとなって、わたしはときにぼくとなって、身体は男であり続ける。性別なんて無ければ良いのに。平然と思う。でもセックスはしたい。やっぱりぼくは気色悪い。でも、この作品がぼくは気色悪い、から人間は気色悪い、に汎化させてくれた。ぼくも気色悪いけど、主人公も相応に気色悪い。一緒に気色悪くなってくれる。心は軽くなる。




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