『海賊船』岡本綺堂 感想
こんにちは。RIYOです。
今回はこちらの作品です。
元は徳川の御家人であり、明治維新ののちに英国公使館で日本語書記を務めていた父親のもとで岡本綺堂(1872-1939)は生まれました。士族らしく彼は漢文や漢詩を習う一方で、父親と同じように英国公使館で働く叔父より幼い頃から英語を学びました。また、父親の人脈や歌舞伎に関心のある母親の影響で在学中より観劇に多く足を運び、彼もまた強い興味を抱くようになっていきます。あるとき、父に連れられて新富座の興行を観た折に楽屋へ向かうと、十二代目守田勘弥に引き合わされました。「團菊左」の時代を牽引した座頭で、当時の界隈で最も重要な一人でした。また、当時の花形である九代目市川団十郎とも接する機会を得ました。綺堂は、団十郎の横柄なもの言いや態度に反感を抱いていると、「あなたも早く大きくなって、好い芝居を書いてください。」と言われ、父親に「わたしはそれをみなさんに勧めているのです。片っ端から作者部屋に抛り込んで置くうちには、一人ぐらいはものになるでしょう。」と言い放った言葉に怒りを覚えて、そのようなものは断じて書かない!と心に決めてしまいます。しかし、繰り返し興行に足を運び、多くの演目を目にするうちに感動を覚えて自らも足繁く通いたいと熱望するようになります。小遣いで暮らす身の上には「團菊左」のような大芝居(格上の興行)には入ることができなかったため、安く多く観劇できる小芝居へと足を伸ばしました。緞帳が降り、廻り舞台も花道も無い小劇場は木戸銭三銭、座布団代一銭、茶代一銭(大芝居は五人詰め桟敷一間四円五十銭、一人当たり九十銭)で観ることができましたが、観客層も当然変わり、緞帳芝居という蔑称で呼ばれていました。家族の腰巾着として大芝居を観て、小遣い銭で小芝居を観ることを繰り返していくうちに、歌舞伎台本にまで関心を持ち始めて自ら芝居を書きたいと強く思うようになっていきます。結果的に団十郎の思惑通りにことが進むことになりました。
明治時代の歌舞伎といえば、何よりも「団菊左」であると言われていました。九代目市川団十郎、五代目尾上菊五郎、初代市川左團次の三人は当時の界隈の花形で、鎬を削って日々観客を沸かせていました。綺堂は劇作家になりたいという志と純粋に観劇したいという思い、そして社会に出て生計を立てていかねばならないという考えから、父親の紹介で1890年に東京日日新聞に入社しました。当時の歌舞伎は民衆の関心が強く、毎日の新聞に劇評が掲載されていました。その劇評家を担うために新聞記者となります。各座頭も新聞での劇評が重要な広告となることは重々に理解しているため、各新聞社へ劇評を書いてもらうために記者用の座敷を設けて招きます。これに綺堂は東京日日新聞の記者として選ばれ、毎日のように観劇しては批評を書くという仕事に就き、社は何度か変わりますがこれを二十四年間続けました。歌舞伎への造詣を深め、文章の書き方を修得し、のちの劇作家として歩む基礎がこの時期に確立したと言えます。
当時の劇作家は「座附作者」と呼ばれており、各座が専属作家を抱えてそれを演じるというものでした。例えば、歌舞伎座の福地桜痴は団十郎の、市村座の河竹黙阿弥は菊五郎の、明治座の竹柴其水は左団次の、と言ったように花形へ当て書きをするように作品を生み出す風習でした。これには、座の持つ「色」や「間」、俳優の持つ「柄」や「仁」を理解しておく必要があり、座附作者自身がそれらを理解して書かなければ良いものが生まれるわけがないという考えのものでした。このような世界のなかへ、ただ劇作を生み出したところで受け入れられるわけはなく、歌舞伎の劇作家を目指すということは非常に険しい道であることが綺堂にも理解されました。
しかしこのような歌舞伎界は、明治の文明開化によって流入した西洋の演劇に影響された世論によって「歌舞伎の風潮そのもの」を批判するようになり、筋書きの荒唐無稽さや特異な慣例などが槍玉に挙げられました。そして1872年に、守田勘弥や「團菊左」の代表者たちは東京府庁に呼び出され、道徳的な是正を求められます。さらに1878年には、伊藤博文と依田学海(森鴎外に漢文を教えた『ヰタ・セクスアリス』の文淵先生のモデル、漢学者で文芸評論家)によって演劇改良運動を指示されました。この運動の意図は荒唐無稽で破綻した筋を無くし、西洋でも歌舞伎が通用する演劇を目指すというものでした。しかしながら、この推進された演劇改良運動は、結論的に言えば皇道思想鼓吹や忠孝奨励を強く描いて、忠臣義士の史実を民衆への教養としようとするもので、あくまで政府によるプロパガンダに近しく、「芝居」としては寧ろ破綻してしまっている考えでした。つまり演劇性を消滅させて政府にとって都合の良い思想を押し付けようとするもので、当然ながら良い作品が出来上がることはありませんでした。歌舞伎の持つ独特の魅力、必要な要素は、先に思想が立つものではなく、一座の「色」や「仁」が何より重要であると言えます。
このような混迷に陥った歌舞伎界に、明治が後期に入ると座附作者とは異なった作家が現れます。西洋の戯曲に影響を受けた翻訳家や、歌舞伎に多く触れ続けてきた劇評家、文壇において既に名声を確立していた小説家などが、演劇改良運動によって歌舞伎界の作家の在り方に変化を与えたことを切っ掛けに歌舞伎芝居を書き始めました。確かに世論が荒唐無稽さに批判を与えていたことには変わりなく、各座も過去の演目を演じ続けることは府庁の意に反することになるため、何らかの手を打つ必要がありました。そして明治座で劇評家の松居松葉が左団次を当て書きにした『悪源太』が上演され、座附作者でないものの台本が初めて演じられました。さらに劇作家の山崎紫紅が真砂座での『上杉謙信』と、明治座での『歌舞伎物語』を、続いてシェイクスピアの翻訳家である坪内逍遥の『桐一葉』が中村座で演じられました。こうして歌舞伎界の風習を破り、座附作者でない者が生み出した作品が大いに受け入れられるようになり、これらを「新歌舞伎」と呼びました。
この時期に綺堂の創作欲も高まっていよいよ書こうかという矢先、歌舞伎座から劇作の依頼がありました。お正月の薮入り連を相手に(当時は盆正月に観劇するのは位の低い者だけと言われていたため)、しかも共作という形ではありましたが、時代の挑戦と受け止めた彼は劇作家の岡鬼太郎とともに『金鯱噂高浪』(こがねのしゃちうわさのたかなみ)を書き上げました。歌舞伎座の座附作者から持ち込んだ際に無理難題を吹っ掛けられましたが、劇場へ迷惑を掛けられないという思いと、劇作家としての志の意地とで跳ね除け、ついに上演となりました。世評はあまり芳しくはありませんでしたが、歌舞伎座芝居の劇作家として歩みを始めた記念すべき作品です。その後、綺堂は劇作を続けて『鳥辺山心中』『番町皿屋敷』『修禅寺物語』などを生み出して新歌舞伎の代表作家の一人に数えられるようになり、彼の生んだ作品は「綺堂物」と呼んで親しまれました。
劇作家としての立場を確立した綺堂は、1913年に新聞記者としての勤めを終え、執筆に専念することになります。生活における時間的な余裕、さらには天性の禁欲主義とも言えるほどの生活(酒、遊興、博打など一切関心を持たない)から、彼は小説という形での執筆にも取り掛かりました。時は明治にして、彼は江戸の語り部という如くにその景色を描き、当時(江戸)における社会の変遷、伝統の変化と伝統固持の共存を、細やかな観察眼と淡々とした語り口で描いていきます。そして1917年に、コナン・ドイルの「シャーロック・ホームズ」に感銘を受けて執筆した捕物帳の先駆『半七捕物帳』を生み出しました。さらには、1923年の関東大震災の被害で蔵書を全て失った彼は、文献を必要としない元来好んでいた怪談物を自らの創造と記憶の江戸の風景を融合させて、独自の幻想的な哀愁漂う作品をも生み出していきます。当然、この最中にも歌舞伎の仕事は疎かにせず、劇評を含めた執筆を延々とこなしていました。常人では想像できないほどの執筆量であったと考えられます。
綺堂の作品は、歌舞伎にしても、捕物帳にしても、怪談にしても、情話にしても、物語の激しさを抑えて江戸の風景描写から心情の哀愁へと繋がるように淡々と描かれており、切ない物語を読み終えたあとには「清涼感のある虚無」がそこには漂います。江戸時代の景色や風俗が驚くほどの臨場感で描かれたのち、幕が閉じるそのときに一切合切が泡のように消えてしまうのは、終えた時代であるためか震災によって失った虚無感が蘇るのか悩ましいですが、それでもさっぱりとした読後感を残すのは一種の江戸の粋人情が齎しているものかと考えてしまいます。
本作『海賊船』は1919年に発表されたもので、『半七捕物帳』と同時期に発表された情話の一つです。舞台は幕末の安政二年に始まります。四国丸亀の藩中で百二十石の侍である戸崎新九郎は、陽明学を修めていたために突如主君より追放を言い渡されます。これは大塩平八郎の騒動がこの陽明学による禍であると幕府が目を付けていたため、主君も巻き込まれまいとした手立てでした。四十歳の彼と三十四歳の妻千鶴、十五のお房と十一のお俊という娘二人、そして十七になる女中お末とともに四国の地を出て大阪へと船で向かいます。荒れることの少ないと言われる瀬戸内がこの日に限って酷いものとなり、揺れの激しさを乗り越えながら、予定より手前の兵庫の港へ停泊します。船が傷んで修繕が必要になる一方で、千鶴が慣れない船旅で弱り果ててしまい、さらには娘が疱瘡となって旅を進めることができなくなりました。長く宿を取ることになり、僅かの蓄えで遣り繰りしなければならないため、宿を安いものに変えて家族は療養します。容体も良くなりそろそろ発とうかというときに、宿の隣人から快復祝いを受けてともに酒を酌み交わします。大阪まで船旅で行くか陸路で行くか、意見の分かれていたなかで、この客人は船乗りであったため安く安全な船旅を斡旋すると言い出して、それを新九郎は頼むことにしました。しかし、これは悪の手引きで、例の客人は少女を拐引かす海賊に繋がっていました。出航時間が早まったとして新九郎一家を叩き起こし、浮舟のない乗り場へ連れていき、海に濡れないようにと少女をおぶって先の見えない海へと船頭は進んでいきました。船も船頭も見えない闇のなかで新九郎と千鶴は取り残され、不安になって方々に娘らの名を叫びます。海賊船であったと理解したときには既に遅く、そこには荷物も娘らも運び去られてしまった海が漂っているばかりでした。
このような経緯から、女中お末の奮闘が始まります。彼女は足軽であった親を亡くして、新九郎のもとへ奉公に出ていました。ここから山椒大夫を思わせる脱出劇と救出劇が進められます。救われたと思う度に他の困難が襲い掛かるなか、お末は忠臣から新九郎へ娘二人を届けねばならないという思いで、健気に立ち回ります。当時(江戸)の人身売買や旅芸人一座の負の面を随所に溶け込ませて、情景を思い描きながら彼女の奮闘記を読み進めることができます。また、苦しいばかりでなく、うつくしい心を持った人からの救いの手もあり、これは一服の清涼剤のように僅かな晴れやかさを齎してくれます。引き込まれる筋立てや綺堂の筆致もさることながら、何より広範な彼の観察眼と記憶力が情景描写を緻密にして、物語が目の前で繰り広げられるように脳内へ映し出されます。
語り調子は淡々としていながら、登場人物の持つ感情を鮮明に映し出して読む者を惹きつけます。歌舞伎芝居、捕物帳、怪談などで名を広めている綺堂ですが、このような情話にこそ、彼の持ち味が凝縮されて描かれているように感じました。本書には表題作『女魔術師』という大正時代の旅芸人一座を題材とした作品も収められており、こちらも大変読み応えがあります。岡本綺堂の情話、未読の方はぜひ、読んでみてください。
では。