『園丁』ラドヤード・キプリング 感想
こんにちは。RIYOです。
今回はこちらの作品です。
キプリングはその短篇の多くにおいて超自然的なものに接近しているが、それはポーの短篇とはちがって、徐々に明らかになるといった底のものである。本巻のために選んだ短篇のうちで、おそらく私がいちばん心を動かされるのは『園丁』である。その特徴のひとつは作中で奇跡が起こることにある。主人公はそのことを知らないが、読者は知っている。状況はすべてリアリスティックなのに、語られる話はそうではないのだ。
J・L・ボルヘス「序文」より
英国領インド帝国のボンベイで生まれたラドヤード・キプリング(1865-1936)は、幼年期をその地で過ごし、根底的な人間としての価値観の基盤を根付かせていきます。美しいラドヤード湖から名前を付けられた彼は、家族間では英語で、乳母や従者と話す際にはヒンドゥー語で話すことになり、多言語、多文化で思考を進めるようになっていきます。幼年期を終えると、インドでの慣習に合わせてイギリスへと渡り寄宿先へと預けられます。しかしその環境は悪く、彼は寄宿先の夫人から虐待や無視などを受けるといった生活でした。キプリング曰く、この「荒廃の家」での苦しい生活が、彼の文才を開花させたのだと振り返っています。学生生活も終わりに近づいたころ、キプリングはオクスフォード大学へ奨学金で入学しようと考えていましたが、彼の学力はそこまで及ばず、且つ学費を両親が払うこともできなかったことから、父親はインドの英字日刊軍事新聞の編集者へと、彼を斡旋します。厳しい執筆量を求められる職場でしたが、キプリングは応え続け、その熱意に対して創作を認められることになり、短篇小説を寄稿し始めました。
多くの作品を生み出したキプリングは、作家として徐々に文壇に台頭し、編集者の立場から専門作家へとなるため、イギリス帝国文学の中心地であるロンドンへの移住を決意します。インドから東へ向かい、ミャンマー、シンガポール、香港、日本と経由して世界を巡ります。日本の優雅さと心遣いに心を打たれたキプリングは、日本人の風俗習慣や世間に対しての著作を遺しています。そして、サンフランシスコへと渡ってアメリカ東部へと進み、大西洋を経由してロンドンへと到達しました。早速、構想を練っていた作品の執筆を始めて、作家としての活動を再開します。そのころ、アメリカの作家で出版エージェントのウォルコット・バレスティアと出会い、共同で執筆を行いました。そしてキプリングは、この妹であるキャロライン・スター・ウォルコット(キャリー)と結婚します。彼らはアメリカへと向かい、子供にも恵まれますが、キャリーの兄と揉めたこともあり、結果的にイギリスへと戻りました。その後も世界を巡りながら著作を生み出し、1907年に「この世界的に有名な作家の創作を特徴づける、観察力、想像力の独創性、発想の意欲と、叙情の非凡な才能に対して」ノーベル文学賞を受賞しました。
1914年に本格化した第一次世界大戦争では、ドイツに占領されたベルギーを援助するというイギリスの目的に対して、国内プロパガンダのチラシをキプリングは引き受けます。ベルギーからの避難民を助け、赤十字を支援し、軍へ慰問するなど、彼は可能な限り精力的に戦争へ参加していました。しかしながら、この戦争で愛息ジョンを失ってしまいます。1915年に行われた、この戦争でのイギリス軍最大の攻撃「ルースの戦い」で、ジョンはフランス西部で帰らぬ人となりました。本作『園丁』は、この息子の死が踏襲されています。激しい戦いの最中、命を失ったジョンの遺体は見つかりませんでした。精神的な不安と僅かな希望が募るなか、キプリングは空から捜索チラシを配布するなど、なんとしても探し出そうと努力しました。
またキプリングは、戦後に帝国戦争墓地委員会に任命されたことで、戦争墓地へ訪れる遺族たちの心情を、彼自身の心情と重ねて深く理解していたことが、本作での描写でも伝わります。そして、そのような人々の心を救うような作品として、本作は今もなお読み継がれています。
裕福な良家の出身である独身女性のヘレン・タレルは、生まれ育ったイギリスの田舎町に住んでいました。肺を患った彼女は療養のためにフランスへと向かいますが、回復するとマイケルという乳飲子を連れて帰ってきます。この子は最近に亡くなった放蕩者の兄の息子で、育てることを一任されて連れてきたのだと話します。マイケルが六歳になると、ヘレンになぜ「ママ」と呼んではいけないのかを尋ねますが、「叔母」であるためそれはいけないと答えます。悲しむマイケルを憐れんで、ヘレンは「寝る前はママと呼んでいい」と伝えましたが、そのことをヘレンが友人に打ち明けたことで、マイケルは激怒してしまいます。ヘレンは周囲に隠し立てをすると結果的に良くない事態になるという考え方であったため、尋ねられるとどのようなことでも明け広げに答えてしまうのでした。マイケルが十歳のときには私生児であることを理解しますが、ヘレンの想いとともに受け入れて、より一層の強い家族の絆で結ばれます。彼は成長し、オクスフォード大学への奨学金を得て入学を目前にしましたが、第一次世界大戦争が勃発したことにより、その望みは消えて陸軍へと入隊しました。向かった戦場はフランス西部の戦線で、間も無くルースの戦いが起こってマイケルは戦死してしまいます。砲弾の瓦礫に覆われた彼の遺体は見つけられることなく、行方不明としてヘレンのもとへ通知されました。戦争後、マイケルがハーゲンゼーレの戦争墓地へ埋葬されているという報せを受けて、ヘレンは彼に会いに墓地へと向かいます。夥しい数の墓には位置番号が与えられ、ヘレンに届いた通知にはその番号が記されていました。墓地内で作業をする園丁にマイケルの墓の場所を尋ねると、「わたしと一緒にきなさい」「そうすれば、あなたの息子さんのいる処を教えてあげよう」と告げられて案内されます。そしてヘレンは園丁に神を見て物語は終わります。
ヘレンは兄との禁断的な恋愛関係にあり、その子を身籠もったことで周囲にこのことが明らかにならないよう、フランスへと旅立って出産し、帰郷したのだと考えられます。マイケルがキリスト教の洗礼を受けたという記述から、この田舎町ではクリスチャンとしての信仰が多数であり、その信仰に則った生活が営まれていたことがわかります。さらに、当時(二十世紀前半)のイギリスの田舎町では、ひどく閉鎖的で風習や習慣を重んじる空気が漂っていました。ヘレンは「明け広げに」自らのことを打ち明けていたとされていますが、それは「打ち明けているように見せる」ことで、真に隠したい関係性を周囲に悟られないようにしていたのだとわかります。しかし、マグダラのマリアがキリストに許されたのと同じく、ヘレンもまた許されたのだと諭すように、園丁はマイケルを「息子」と呼んで偲んだのだと思われます。そして、限りない慈悲を込めた視線が、ヘレンに伝わり神を見たのだと受け止めることができます。
ヘレンについて、冒頭から語られる周囲の理解による記述は、前述した通りに「見せかけられたもの」であり、読者はごく自然に述べられたものを事実として受け取り、読後に多くの真実を発見することになります。淡々と述べる筆致と、その裏に込められた熱量は、読み返すほどに強く伝わり、たった一言で世界が覆る衝撃を、読者は感じさせられます。帝国主義的な作家として名を挙げられることの多いキプリングですが、本作では戦争による被害を受けた人々が、忍耐をもってその事実を受け入れようとする姿を称賛するのではなく、心に閉じ込めた激しい悲しみの感情を尊重して憐れんでいます。その悲しみを、キプリングは「園丁」という姿の神が、戦争被害者の代表的存在としてのヘレンに対して「憐れみ」を与えています。子を、家族を、友人を、戦争によって失った誇り高い英国人たちに対して、神による憐れみを与え、忍耐強く苦しみに耐えることなく悲しむことを肯定しています。これは、愛息ジョンを失ったキプリング自身にも向けられた憐れみであるとも感じられます。
主はよみがえりました。マリアは泣くべきときではなく喜ぶべきときでした。キリストは悲しみを喜びへと昇華させます。憐れみから救いへと、キプリングは戦争遺族たちへ伝えたかったのかもしれません。本書で四十ページ足らずの非常に短い作品ですが、心を強く揺さぶる作品です。ラドヤード・キプリング『園丁』、未読の方はぜひ、読んでみてください。
では。
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