『パルプ』チャールズ・ブコウスキー 感想
こんにちは。RIYOです。
今回はこちらの作品です。
バーと競馬場に入りびたり、ろくに仕事もしない史上最低の私立探偵ニック・ビレーンのもとに、死んだはずの作家セリーヌを探してくれという依頼が来る。早速調査に乗り出すビレーンだが、それを皮切りに、いくつもの奇妙な事件に巻き込まれていく。死神、浮気妻、宇宙人等が入り乱れ、物語は佳境に突入する。
チャールズ・ブコウスキー(1920-1994)は、ワイマール共和政時代のドイツで生まれました。父親はドイツ系アメリカ人で、第一次世界大戦争でアメリカ占領軍に従軍し、兵役を終えてからもドイツに留まっていました。父親は戦後復興を需要とした建設請負業者となって、戦後の特需を受けて大きな利益を生み出しました。しかし、敗戦国として要求された莫大な賠償金はドイツの経済を狂わせ、異常なインフレーションと経済停滞が起こります。これにより、ドイツで生計を立てていた父親は利益以上の支払いを求められるようになり、アメリカへ帰国することを決意します。1930年にロサンゼルスへと移住しましたが、父親に職は無く、やがて心は荒んでいき、息子であるブコウスキーに虐待を与え始めます。のちにブコウスキーは、この理不尽な心身に対する暴力を受けた経験によって、世に溢れる不当な苦痛を理解することに繋がり、これが執筆を始めた動機となったと語っています。
ブコウスキーはドイツで生まれ、ドイツでの生活の長い両親の影響があり、彼の話す英語には強い「ドイツ訛り」がありました。また、内向的な性格であったことから友人を作ることが困難であり、近所の子供たちには嘲笑されることが多くありました。そして世間では世界的な大恐慌の被害が強まり、生活も苦しくなっていくなか、ブコウスキーは内に溜め込んでいた憂鬱と怒りを強めていきます。こういった苦しみから生まれた彼の理解や意見は、彼の生み出した多くの著作の主題となりました。
彼は高等学校を卒業するとロサンゼルス・シティ・カレッジに進み、美術や文学を主に学びましたが、第二次世界大戦争の勃発により退学することになりました。1944年の7月、戦争が太平洋を跨ぎ戦禍が拡大していたころ、ブコウスキーは徴兵忌避の疑いで逮捕されます。ナチスとの交戦中であったアメリカでは、国内に住むドイツ人、ドイツ系アメリカ人に嫌疑を向け、逮捕者を多く出していました。ドイツ生まれのブコウスキーは典型的に疑われ、即座に刑務所へ拘留されます。嫌疑が晴れ、今度は兵役に向けた身体検査を受けることになりますが、彼は不安定な精神を抱いていたことから心理検査に不合格となり、結果的に兵役を逃れることになります。
大学を退学したころから執筆を試みていたブコウスキーは、紆余曲折ののちにようやく活動を再開し、雑誌「ストーリー」に短篇小説が掲載されました。そこから二作品をさらに掲載されましたが、ブコウスキーは文壇に地位を確立できないことに苛立ちをおぼえ、10年近くものあいだ、執筆を取りやめてしまいます。酒と女に溺れたこの「10年間の酔っ払い」期間は、彼がのちに自伝的エピソードとして描くフィクション作品に多く描写されています。
1952年になると、臨時の郵便局員として働き始めましたが、出血性潰瘍の症状が重くなり、入院して治療することになりました。この期間に詩的感情が強まり、退院後には幾つも詩を生み出し、小さな詩誌「ギャロウズ」にも掲載されました。飲酒は続けましたが、その後も詩作を続けて作家としての活動を再開します。
1958年には両親が他界しました。悲しみとともに蘇る不当な苦痛によって、ブコウスキーは創作活動に打ち込み、一層に作品を生み出していきます。また、生活を立て直すためにも郵便局へと戻り、荷物仕分けの仕事に従事して労働を再開しました。彼は、10年以上もこのような生活を継続します。ここで、運命的な出会いがありました。1969年にブコウスキーは、「ブラック・スパロー・プレス」の出版者ジョン・マーティンから専門作家となるように提案を受けます。「毎月俸給100ドル」という条件で、郵便局を辞めて執筆に専念をするという提案でしたが、彼はこれを受け入れます。そしてひと月も掛からずに、ブコウスキーは長篇『ポスト・オフィス(郵便局)』を書き上げました。マーティンによる経済的支援とまだ無名である作家の才能を信じる行為に対して、ブコウスキーは殆どの作品を「ブラック・スパロー・プレス」から出版するという形で恩を返していきました。そして二人の思いは多くの作品となって世に出版され、ついに読者の心を掴み、同社は大きな成功を収めることになりました。
本作『パルプ』はブコウスキーの遺作であり、彼の生涯の関わりと体験を大きな主題に乗せて描いた作品です。ブコウスキーは執筆中、衰えていく健康と思い通りに動かすことができなくなってきた身体から、自分の生涯が終わりに近付いてきていることを実感していました。人生を振り返ると、不当な苦痛と紆余曲折の人生、そして作家として立場を確立させてくれたマーティンの存在と、活躍することができた「パルプ・マガジン」の世界を思い起こしました。それらに対する苦悩と幸福をひとつの物語に仕上げて、全てを包括する主題を込めました。
「パルプ・マガジン」は、二十世紀初頭から第二次世界大戦争を終えてしばらくの期間にアメリカで多く読まれたもので、一般的に娯楽雑誌として認識されています。アメリカが戦争後の特需を受ける前、安価で雑に作られたパルプ紙を用いて刷られた雑誌には、やはり安価な報酬で執筆した作家の、低俗で卑猥な大衆小説が使い捨てのように掲載されていました。しかしアメリカが戦争後の特需を得ることになり、経済は激しく潤い、「紙の安価さ」に対して敏感になる必要が無くなったことで、こういった雑誌に掲載される「パルプフィクション」と呼ばれる作品群は、市場から徐々に姿を見せなくなっていきました。本作の冒頭にある献辞は、この全ての低俗な「パルプフィクション」作品群に捧げられています。
この作品には、狂気とも思える激しい感情、卑猥な性交渉や性癖、解く意欲のない探偵捜査、突飛なサイエンス・フィクション、乱暴なハードボイルド、そして迫り来る「死」の印象が、全編に散りばめられています。ブコウスキーが得意とする、生々しい心的リアリズム、想像もつかない独創性、そして読み進ませる筆致が、存分に発揮されて特異な長篇に仕上げられています。
金も無く、意欲も無い、只管に呑んだくれている自称「LAとハリウッド両方で一番の私立探偵」のニック・ビレーン。彼のもとに困難で不可解な依頼が次々と舞い込んできます。既に亡くなっているはずの作家ルイ=フェルディナン・セリーヌの捜索、葬儀屋に付き纏う宇宙人の美女、不可解な浮気捜査、赤い雀(レッド・スパロー)の捜索など、大忙しでありながら、ビレーンは結局酒を片手に競馬場へと向かう。一見、ダークコメディのような印象で進められますが、時々ビレーンが見せる哲学的な独白は、読むたびに一時、考え込ませられます。雑に言えば、バーで語られる乱暴な実存主義とも言える考えは、性欲と皮肉を強引に正当化するようなもので、読む者は苦笑しながらもどこか理解してしまいます。
鍵となる中心的な依頼者レイディ・デス(死の貴婦人)は、とても美しい典型的なファム・ファタルとして描かれ、強引ながらも強い説得力をもってビレーンと接します。ビレーンの独白に対しても、すぐさま返答するような超常的な力を持っており、何度も彼の危機を不思議な力で救い出してくれます。
本作では、ブコウスキーが見せる厭世的な目線を、特徴的な「ウィット」によって冗談半分のように見せています。しかし、その描写には「不当な苦痛」を受けながら生きている世の人々、そして彼らが抱えている率直な感情をリアリズムによって映し出していると言えます。また、ブコウスキーの得意とするスタッカートのようにブツブツと短い語で綴られる筆致と、目紛しい速度で進められる展開に、読者は次々に頁を読み進めさせられます。そして、セリーヌだけでなく、ダンテ・アリギエーリ、ジョン・ファンテなどからの文学的影響を示唆して、自らの作家人生を振り返るように描いています。
彼の作品には屡々、諷刺的な傾向が見られますが、本作でもやはり厭世的な観察眼を軸として、アメリカ国内の文壇を捉える群集心理に対する批判と、パルプフィクションを使い捨ての三文小説と区切る風潮の疑問を、本作『パルプ』では自分の言葉のように、探偵ビレーンに語らせています。
ブコウスキーが「迫り来る死」を強く意識し、その死をどのような形で受け入れようとしているのかを、本作『パルプ』では客観的な目線をもって描こうと試みています。死の貴婦人に限らず、ビレーンの独白や彼を取り巻く環境には、「死」の印象が常に付き纏っています。競馬と酒に溺れながら、毎日を凌ぐように生きているビレーンには、「死」を受け入れ、待っているようにさえ感じられる場面があります。現世の社会から与えられる「不当な苦痛」をどのように終わらせられるのか、精神に疲れを見せる者のように何度も思考が「死」に戻っていきます。美しい女性への性欲はありながら、精神には苦悩が常に滞在し、その欲にさえ集中できないという感情には同情さえ芽生えます。
「赤い雀」(レッド・スパロー)は、ブコウスキーがマーティンとともに協力して育て上げた「ブラック・スパロー・プレス」を表しています。彼は終幕で赤い雀に出会います。この赤い雀との融合は、マーティンへの敬意と感謝として描写され、「死」を肯定的に受け入れるという思考を読み取ることができます。彼の好きな「黄色」に包まれて、「死」を安らかなものと捉える思いは、厭世主義的なものだけではなく、マーティンへの感謝と満足によって幸福的な印象を最後に残します。
「悪文に捧ぐ」という献辞は、パルプフィクションという文化的価値への敬意だけでなく、ブコウスキー自身がブラック・スパロー・プレスで出版した作品群に対しても述べられているようで、彼が人生を振り返り、そこに感謝と満足を、本作で照れ隠しのように「悪文調」に描き出したように感じてしまいます。チャールズ・ブコウスキー『パルプ』、未読の方はぜひ、読んでみてください。
では。
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