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8年間住んだ部屋からの引っ越しに寄せて

この地に引っ越してきたのは2017年の1月のことだった。遡って2015年、私たち夫婦は品川区大井町のワンルームで意気揚々とフリーランスとして駆け出した。しかし程なくして私が仕事とプライベートの境目をワンルームの中に見出せずに心身ともに苦しみ、独立した仕事部屋の必要性に駆られ、現在の住まいに身を移した。

当初同じ大井町で広い部屋を探したが、仕事も軌道に乗っておらず、お金に余裕のなかった当時、人気エリアゆえに家賃が高く、とても払える金額ではなかった。断腸の思いで大井町を諦め、エリアを横浜に移した。在宅ならば駅近の必要もないと、都内へのアクセスだけは確保した田園都市線沿いの最寄り駅まで徒歩15分、2LDKの部屋。首都高が近くを通るが思いのほか静かで、春には目の前の並木道に桜が咲き乱れる光景が美しいと知ったのは、住み始めてからしばらく経った後のこと。新生活当初は都落ちの感すらあり、失意の中の船出だった。

引っ越してからも慣れない仕事にしばらく苦しんだが、子どもが出来たことが転機となり、次第に状況が好転していった。そして家族3人の生活の中でこの街がより好きになっていくのを感じていた。

コロナ禍と並走した私たちの子育ては、例外なく極力人との接触を避けざるを得ないもので、毎日午前中に3人で散歩に出ては家の前の桜並木道を歩いた。春にはちょっとしたお花見スポットとなるほど美しい桜を見ながら歩く春の時間は、世界が混乱に満ちていることを忘れさせてくれた。「後にも先にもあれだけ一緒にいられるのはあの時だけかもなあ」と、保育園に通い始めた子どもを見送る時、どこにも行けない日々がくれた3人だけの時間を愛しく思い出す。

子どもの成長と共に夫婦の中で新しい住まいに移りたいという機運が高まっていた。将来的に子ども部屋を…と考えるとどうしてもあと一部屋必要になってくる。子どもが小学校に上がる前に深く根ざす場所を見つけるタイミングが今だ。今年に入り本格的に新居探しをはじめ、先日無事引き渡しとなった。新居は今とやや生活圏は異なるが転園をしなくて良い距離感で、とても静かな環境に立地する3LDKの住まいだ。

もし子どもが出来ていなかったら。3LDKの広さは当然必要ない。少子化とはおおよそ縁遠い子育てファミリーが多いこの街に、いずれ肩身の狭さを感じて出ていっただろう。ありえたかもしれない未来の中に、子どもも新居もこの街もない。

家の前の桜並木道を3人で歩く時、ふと引っ越してきた当時を思い出すことがある。まだありえたかもしれない方の未来が現実感を帯びていたあの頃。フリーランスとして上手くやっていけるのか不安に押しつぶされそうで、子どもを持つなんて想像することも怖かった。それでも妻が必死に説得してくれ今がある。夫婦2人の間に繋がれた小さな手がある。あの時、妻が説得を諦めていたら。

3人となった今、むしろ不安は多い。子どもという変数が加わり、より予測不可能な未来となったからだ。なのに心は不思議なほど穏やかだ。3人一緒ならきっと上手くいく。根拠のない自信がなぜだかむくむくと湧いてくる。そんな自信が新しい場所へと向かっていく原動力になった。失意の中で始まったこの部屋での生活は、明日、希望を胸に別れを告げる。さあこれからどんなことが起こるかな?

希望の数だけ失望は増える
それでも明日に胸は震える
「どんな事が起こるんだろう?」
想像してみるんだよ

くるみ / Mr.Children

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