3分で読めるエッセイ|辻井伸行さんのピアノに恋して4:ベートーヴェン ピアノソナタ ≪悲愴≫ 第二楽章 Adagio cantabile
漆黒の、雨の夜だ。
傘を広げると、世界と私とを、一枚の頼りないフィルターが隔てた。
自分のものではないような両足を、なんとか無理矢理、交互に運ぶ。
一歩。また、一歩。
濡れたアスファルトが、街灯をモザイク状に反射し、悲しみにむせび泣くように、黒く光っている。濡れた路面に足を滑らせ、それでもなんとか転ばずにすんだ時、足元に映る自分の影から、無意識に目を逸らしていた。
どこで間違ったのだろう。
どうして、こうなってしまったのだろう。
感情が消えたまま、歩く。
一歩。また、一歩。
透明なフィルター越しに空を見上げるが、月も星もない。雲、即ち水滴や氷の粒のコロイドが、街の明かりを寒々と散乱している。燈とは本来、心をあたたかく照らすものであるはずなのに。
逃げ出すのか。それとも此処で朽ち果てるのか。いっそのこと、このまま体が夜に溶けだして、闇の一部になってしまえばいい。
その時、最後のカードを使うことにした。
イヤフォンをつける。街の雑踏の音など、聞きたくはなかった。こんな夜に私が受け付ける音は、彼のピアノを置いて他にはない。
辻井伸行さんの演奏。
ベートーヴェンの悲愴ソナタ、第二楽章、Adagio cantabile。
雨の曲なのだと、解った。
空から降ってくる、小さな水の球体。その集合が、透明な傘を微かに鳴らす。その雨の音こそ、辻井伸行さんの指が鍵盤に触れる音なのだと、解った。
陰鬱な雨が、慈雨へと変わった。
辻井さんの音が、心のすぐ傍に寄り添ってくれる。私を叱咤激励することも、冷たく突き放すこともない。状況を悲観することも、逆に楽観することもない。辻井さんの音は、空から降ってくる雨の粒となり、私と一緒に、ただ、ただ、歩いてくれる。
一歩。また、一歩。
辻井さんの音に手を引かれ、私は、雨の夜の闇の中を歩く。
古い記憶が蘇る。傷つき泣いた夜や、幸せに胸が躍った夜。
道行く人とすれ違う。肩をあえてぶつけられても、何のことはない。私は今、辻井さんのピアノに守られている。柔らかな雨は、その芯に計り知れない強さを秘めていた。
テンポが変わった。辻井さんの音は、私の手を離さずに、楽しそうにダンスを始めた。手を引かれるまま、私は、歩く。辻井さんが愛した音たちに、もう少しで触れられるかもしれないと、この手を、腕を、いっぱいに伸ばす。
天国に上るかのような音だ。
生きるということを、そのきらめきを、何も解らない私の前で、優しく紐解いてくれるような。ずっと、私が立ち上がるまで、すぐ傍で待っていてくれるような。
それは、音楽の神様に愛された青年が放つ、命の輝きの音だ。
両足を運ぶ。もう、悲しくない。
一歩。また一歩。
たとえ、これが、死へと向かう一歩だとしても。
そうだとしても、今を生きよう。
ゆっくりと、瞬きをする。
ずいぶん長い間、眠っていたかのようだ。
傘を閉じ、空を見上げた。
フィルターがなくても、深く呼吸することができる。
金や銀の星々が、限りある今を精一杯生きるように、夜空に瞬いていた。
やはり、恋をしている。
<終>
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