3分で読めるエッセイ|『辻井伸行さんのピアノに恋して3:ベートーヴェン ピアノ・ソナタ第23番《熱情》』
仕事が忙しくなった。休日出勤を終え、帰宅したとたん、ソファに埋もれるように崩れ落ちた。頭ががんがんと痛み、こめかみを押さえた。ぼんやりと、いつもの天井を見上げる。朝起きて、仕事へ行って、死ぬ気で働いて、帰ってきて、食べて、寝て、朝起きて、また仕事へ行って……。
私の時間は私の人生なのだと、命を削って燃やして働いて、何になるのだと、心が叫んでいた。ここではないどこかへ、行きたかった。
私に必要なのは、間違いなく彼のピアノだった。辻井伸行さんの音を、心の底から欲していた。
iTunes Storeにアクセスし、勢いでアルバムを購入した。辻井伸行さんによる、ベートーヴェンの三大ピアノソナタ——『悲愴』、『月光』、『熱情』。贅沢な三択の中から、直感で、『熱情』を選んだ。イヤフォンをつけ、ソファに埋もれた。さあ、演奏会の始まりだ。
第一楽章の最初の三音は、地の底から響く、マグマのような暗い声だ。「運命の動機」の四音が主題を裏打ちし、嵐の前の静けさを感じさせる。心がざわっと揺れた。一人の人間の裁量ではどうしようもできないような、激しい運命。マグマがついに地上に現れ、森や河を飲み込み、焼き尽くし、暴れながらも悠然と流れていく。そのマグマは必ずしも死を象徴しない。それは、圧倒的な生きることへの欲求、エネルギーなのだ。突如現れる、女神が歌うような、展開部の凛としたメロディーが、たまらなく美しい。目まぐるしく転調を繰り返しながら、マグマと女神の声が、激動の運命を交互に織りなしていく。
凪のような第二楽章。夜の海を見ているようだ。生きることに疲れてしまった、そんな夜に、凪いだ海の前で、深呼吸をする。寄せては返す波が、徐々に頭の芯を溶かし、摩耗した心を夢の世界へと誘う。思い返す過去の幸せな記憶。ころころと子供たちが笑うような、高音の響きが心地よい。辻井さんのピアノが、きらきらと輝く星の光を紡ぎ、夜空に放っていく。夜の海辺で、ただ、波と星々の光を見つめる。
しかし、そんな静けさは長くは続かない。
第三楽章。激情的な鼓動が、心臓を破りそうになる。不幸な未来を予測し、たった一人、炎の中で叫ぶ。地獄の業火が心を焼き尽す。生きることは、とても苦しいのだ。ベートーヴェンが、その苦しみから目を背けず、真っ向から立ち向かったのだと、この曲を聴けばわかる。ちろちろと炎の舌を出す怪物と対峙する。そう、この怪物は、自分自身なのだ。辻井さんの覚悟が伝わってくる。全身全霊で、鍵盤を叩いて出した音。自分自身と対峙し、決して逃げることなく、真っ向から挑む。人生の苦しみも、怒りも、自分自身が生み出したもの。怪物と刺し違えるように、ピアノは絶唱する。
何て深い音を出すピアニストだろうと、恍惚の中で繰り返し思う。辻井さんのピアノからは、ベートーヴェンの感情の起伏が、まるで「音が生きている」ように伝わってくる。かつて、あまりにも清らかな、きらめくようなショパンを奏でた少年は、いつしか、人間の根源にあるマグマのような、名前を付けることすらできない情動を、こんなにも美しく奏でる青年となっていた。
人生の不条理、苦しみ、怒り。「負の感情」と言われてあっけなく片付けられてしまいがちなそれらを、芸術作品に昇華させた偉大な作曲家、ベートーヴェンに敬意を。そして、彼の魂を受け継ぎ、音楽の神様に愛されながら、泣き崩れそうになる音を与えてくれる、辻井伸行さんに、心からの感謝を。