【連載小説】 ホテルマン(9話)
午後は信用金庫での仕事だ。
駐車場に到着するとクリーンタイルに仕事を発注してくれるイケメンの男性がいた。
「僕は山本です」
山本は個人事業主として清掃の仕事をしている。
そして大切な顧客や清掃場所が広いときにクリーンタイルへ仕事を発注してくれるそうだ。
「おはようございます。自分は田辺です」
僕はさっきまでビジネス書を読んでいたからなのか自然と敬語を使っていた。
「田辺君はしっかりしているね」
僕はしっかりなんてしていない。けど言われて嬉しい気持ちになった。
「ありがとうございます。でも僕なんて」
「いやいや、若いのにこんなふうに仕事して偉いよ。田辺君は一人暮らし??」
「はい」
「とても素晴らしいことじゃないか。僕は思うのだけど自分で働いて、自分の生活費を自分で稼いで、好きなもの食べる。これが一番立派なことだと思うんだよ」
「いや、僕は別に東京に上京したのはやりたいことがあったわけではないです。むしろ実家から逃げるように東京に来たんです」
「とても立派じゃないか。別に夢がある人が偉いわけじゃないんだ。社会人として普通に生きていく。それはとても難しいことなんだよ」
「どうしてですか」
「僕はね、昔ホテルマンとして働いていた。そこで働く人やお客様、支配人、各国の偉い人とか色んな人を見てきたんだ」
「はい」
「30年近くホテルマンとして働いていて気付かされたんだ。時代は必ず変わっていくし、ずっと状況が同じなんてことはありえない」
僕には言っている意味が理解できなかった。
「一緒に働いていた同期は僕も含めて、色んな事情でホテルマンを辞めていった。それは家族の問題、ホテルマンの給料が安くなった問題、会社の方針と折り合いが付けられず人間関係がうまくいかなかった人」
「….」
「去年まで豪勢な食事を注文していた会社の社長が急な死去を迎える。毎年連れくる夫人の顔が変わる。200人以上連れきた会社の人が30人近くになる」
僕にはあまりにも遠すぎる世界な気がした。
「隣の芝生は青く見えるじゃないけれど、普通に平凡に暮らしていけました。なんて人どこにもいないだよ。みんなどうして僕がこんな思いをしなきゃいけないんだって思って生活してるんだよ」
僕には山本さんがなにが言いたいのか全くわからなかった。
「けどね。田辺君はこうしてきちんと働いてちゃんと生きているのが、すごいって思うんだよ。こぼしたい愚痴はあるんだろうけど、それでも必死に生きている姿はおじさんには眩しいだよね」
「けど、ミュージシャンとか芸人とかユーチューバーとかプロゲーマーとか将棋とか囲碁とかなんかそういう人達の方がカッコいいじゃないんですか」
「メディアがそういう演出をするのは否定しない。けど野菜やお水や電気や….汚れた床はどうするのだろう。きっと当人も心の奥底では気づいてる。僕はコピーの取り方がわからないってね」
そうか。
僕は僕だけが不幸だと思っていたけど、みんな色々抱えながら生きているんだな。
それも山本さんは僕をすごいと言ってくれている。
僕はコンプレックスの塊でそれを浄化するように清掃の業界で一番になりたいなんて思っていたけどそうじゃないらしい。
汚れた床を綺麗にすることは社会から求められるとても大切なことなんだ。
そして無理に夢を追わなかった自分の選択や実家から逃げるように東京に上京したことは決して悪いことじゃないんだ。
「結局は人と人だから」
僕はその後、一生懸命働いた。
山本さんが仕事が終わった後に僕を呼んでくれた。
「君は話を聞く才能があるかもしれない。磨いてみたら」
家に帰る電車で山本さんのセリフを繰り返し思い返していた。
僕には話を聞く才能があるのだろうか。
続く
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