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読書メモ3「僕は君たちに武器を配りたいエッセンシャル版」


「僕は君たちに武器を配りたいエッセンシャル版」
瀧本哲史

知人に借りていたこちらを先に読んだけれど、感想書くのは忘れていた。

資本主義の流れの中で陳腐化していくことは必然だけど、その中でも生き延びるためにスペシャリティを持つのがいいよねって話(ざっくりすぎ)。

私が良かったなと思ったのが、狭義の専門性だけでなかったところ。
狭義の専門性になると、塾に行く行かせる、資格取るとかまあ比較的簡単に不安ビジネスの餌食になってしまうので、そうじゃなくて、誰かの手のひらじゃなく、自分の頭でちゃんと考えようぜというもの。

ただ、これが書かれた時点では、今よりも少しゆとりがあったのかもしれないなと感じた。
彼もここまで落ちぶれる社会を想定していなかったのではないか。
コロナはイレギュラーなので別に置いておいてもだ。

ゆとり教育の時にも思ったけど、頭の良い人たちは、「なんでだろう?」「どうしてだろう?」と考える人間ばかりを想定しがちなのかなと。自分たちを基準に考えるのは仕方ないけれど。
そんなこと思わない、考えない人は実際に結構な割合で存在するのだ。私だって「そっち側」だろう。
圧倒的大多数の「そっち側」があるから、資本主義は成り立つんだろうし、武器を取れ!という呼びかけにも「おー!」と本を買って「あっち側」になれるかもしれないと思わせる希望ビジネスも可能にもなる。
「経営の神様」は、一人だから神だが、同じような人がいっぱいいたら神と呼ばれることはない。

「あっち」も、いつ「こっち」になるか、分からない。
居続けることは闘いだろう。主に自分との。

自分との闘いで必要となるのは、私は自分と取っ組み合う力だと考えていて、その力を養うのは教養というものなのじゃないかなと。

今はなかなかいないけど、家庭・経済的な問題で高等教育を受けられず義務教育だけで社会に出ても高い社会的地位を築き、それどころか人間性も高い!みたいな人がいた時代があったと思う。
そういう人って多分、すごく「自分の頭で考え」た人なんだろう。
この時に自分の頭を使う、考える、その場所への梯子・階段こそが教養なんじゃないかな。

「梯子ですよ、どうぞ」「こっちにはさらに楽ちんエレベーターです」なんて言われて乗ってちゃダメなんだよって書いてあるけど、そこはほら、あっちの人だから。
大多数はそっちでちょうちょのように花から花へ飛び移る毎日を過ごしてる。
「そっち」の割合は、多分瀧本さんが思っていたよりも急激に増えているような気がした。

リベラル・アーツという言葉を知ったのはいつだったか。
ずいぶんと昔だった気がするけれど、優秀な頭脳の人と、似たようなところに着地できた私、よく頑張りましたね、えらいですね、とビバ自分!で締めくくろう。

おしまい

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林田りんだ
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