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映画メモ93「永い言い訳」

アマプラ配信はもう終わってしまうらしく
ギリギリ滑り込みセーフ。
いつもの同僚からのおすすめで
熱も微熱になったことだしと改めて観てみる。
昔にも一度さらっと見たことはあって、
普通にいい映画だと思った。

恋人を亡くしてからの今、一瞬怯んだ。
でも、観られたことにまずは感謝。

私は、あの時本当に、我を忘れるほど悲しんだ。
嘆き悲しんだ。
もう別れていたのに、悲しんだ。
「私に悲しむ資格はあるのかな」
と考えながらも。
数ヶ月とは言え別れていたわけだし。
連絡をいただいたにしても。
次の彼女もいたようだし。

でも、幽霊が知らせてくれたしなと
生きている私の方でなんとか補正をかけながら
遺骨(分骨していただいた)に話しかけて
私は今も自分勝手に悲しんでいる。

彼のお母さんと、妹さんとはたまに連絡を取る。
彼の死がなければなかった繋がり。
それも映画と似てるなと思った。

自分への罰のように人の死を感じてしまうことは
仕方がない。
死んだ人はもう何も感じていないから
考えること自体は生きている人のできること(一応)。
だからお葬式や、その他の節目の法事なんかも存在すると思う。

私はマゾなので、悲しみがやってきたら存分に
がっぷり四つ?に組み合うのだ。
悲しみをなすりつけていって、徐々に慣らす。
小さい頃からそうしてきたし。
もう取り返す機会を失った失敗なんかも、全部何度も思い出す。
そうしないと、自分が過ごした時間に対して
不誠実な気すらしてしまうから。
自分が作って過ごしてきた時間を、
どんなに苦しくても、私は私のものにしたいから。
私は生きるのが好きじゃないのに
ひどく貪欲だ。

離婚の後も、子育てで目を背けがちだったところを
敢えて言語化して自分を痛めつけるなど息をするように相撲を取った。
言語化する過程で私は、元夫ばかりを憎まないところに
辿り着くことができたのだった。

とにかく、振り切れるくらいに悲しまないといけない。
私はそう思う。
そうじゃないと、何も出てこない。
言葉とか。そういうもの。

アカリちゃんが最初のお留守番でつれない態度をしたくせに
ベランダでサチオくんの帰りを待つ気持ちも
そしてそれにどうしようもなく喜びを感じるサチオくんの気持ちも
かつてアカリちゃんだった、現在サチオくんである自分は
両方分かって、気恥ずかしかった。

人間は、ひとりではまったく生きていられない弱い生き物だ。
誰かの作ったインフラの上で私たちは暮らしている。
弱いつながりでも、0と1の世界だけだとしても
そこに愛を感じていたい、私は。

おしまい。








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林田りんだ
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