(読書感想文)「人間の死に方」
久坂部羊著「人間の死に方」読了。
ご自身の経験(家族の看護と看取り、医師としての患者の看取り経験含め)をもとに、死と生について述べている本作。
生を得てこの世を生きる以上、死は誰の身にも平等に訪れるもので、それは人間である以上避けられず、向き合わなければならない。
著者が何度も説く通り、都合の良い最期なんて願っても思う通りにはいかず、苦しみも伴うし、だけども医療の限界と現実を認識すれば、できることはたとえ医師でも限られる。
長生きをしたい、という思いは、「ただし、健康で、食事や排泄など最低限のことが自分でできて、自由が効く範囲で」という多くを求める条件付きだ。
自分の意思も尊重されず、人間の尊厳も失われた状態で1日でも多く生きることを望んでいるわけではないだろう。
ただ、その現実に、私も含めて多くの人が目を逸らしがちだ。
死について語るのはなんとなくタブー視されているきらいがあるし、よっぽど余命宣告などされていない限りは、どんなタイミングでするものなのか、どう切り出すものなのか、難易度が高い。
高齢者の話ではなく、子供についてのくだりが出てきた時、頭をガンと殴られた気持ちになった。
自分と親でさえ、死について直視できないというのに、
幼き子供と死を結び付けるのは、辛すぎて、想像しただけで暗澹たる気持ちになる。
手持ちの情報量が少ない子供がある日突然天命にうたれたように「私はこの学校に行ってこの学問を学び、この仕事について、こうやって生きていきます」とキリリと言い出す…わけはないから、ある程度は親の価値観も入る。それも含めての育児であり親としての責任だ。
ただそれが、親としての価値観と安心を優先していないか?と詰められると、途端と心細くなる。
著者は医師としての経験含め、人生何周目かと思うくらい達観しているように見えるが、
著者の妻や母は人間らしい言動や行動もあり(それでもあんなに献身的に介護にあたる姿は尊敬しかないが)、少しホッとする部分もあった。
⭐︎⭐︎⭐︎
閑話休題。
風邪を引くと(親でも子でも)、保育園や学校などの集団生活の場では感染症予防の観点で受診を半ば強制され、混んでいる小児科や内科の待合室で延々待った結果数分の受診で処方されるのはいつも同じ抗生剤や解熱剤や咳止め、そしてムコダイン。
医師も「やった感」を出すために処方している側面もあるだろう。なんという滑稽なシステムか。その受診にまつわる前後のその時間を睡眠にあててたら改善したかもしれないのに。
それでも咳をする娘に対して、母(娘の祖母)が毎回言う。「病院行ったの?」と。
そして、重度のアトピー性皮膚炎で顔が真っ赤だった時、刺激物も全部NG、化粧も何も付けないでと言われた。
私は今でもコーヒーを飲むし、辛いものはほどほどにしつつもキムチも好きだ。外国製の化粧品は付けないけど、よく合う化粧品を付けると調子が良い。
医師は一面から診断しているに過ぎず(それが悪いとは言わない)、当然、患者の人生の責任をとってくれるわけでもない。
私が私の人生の最終責任者として決断をしないといけないんだ。
フィジカルもメンタルも自分で守る。
件の重度のアトピーは、何のきっかけがあったわけでもなく、自然治癒した。
医療も含め、様々なサービスで溢れかえっている時代、何を足すかではなく、何を引くかが何より難易度が高く、勇気が要り、重要になってくるのではと思っている。
読み終わった後も、すぐには身近な人と死について話せるほど劇的に行動を変えられる勇気はまだ持てていない。
ただ、孤独死や延命治療や自宅の看取りや老衰について、読む前よりも解像度が大幅に上がり、認識も改め、アンテナがたったように思う。
そして昨今の AI や最先端の情報ではなく、人間の歴史や営み含め伝統に今は思いを馳せている。
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