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「常識的に考えて」

という言葉が嫌いだ。

「普通、(+自分の意見)」も
「(自分の意見=)当たり前」も
好きじゃない。

「もう大人なんだから、(+個人の意見)」も
「日本人であれば、(+個人の価値観)」も
嫌い。

.

“自分はこう思う”

ってシンプルに言えばいいだけなのに、

“自分が多勢だ”

ということを暗に強調する感じが、
たまらなくキライ。


得体の知れないたくさんの「誰か」たちをバックにつけて、
話し相手にプレッシャーを与えるそのズルさも、

自分に自信がないのを隠して、
何かに縋ろう/ 押し付けようとするあの無責任さも、

自分を恰も真っ当なもの、
”一段高い”ものかのように飾り立てる傲慢さも、

嫌い。

.


私は、これまでの人生で たくさんこの言葉を使ってきたし、
今でも気づいたら、
飾り立てる余計な一言を挟んでいる自分に気づくことがあり、
その度に自分にがっかりして、
パチンと頬を叩きたいような気分になる。


口を衝いて出た言葉を取り消すことができないから、
私はただ、顔を赤らめて、
口を噤む。
余韻が、心をズブリと刺す。

.

.

 .


「普通」という言葉は不思議だ。


それこそ”普通”に、日々何気なく使う言葉だけれど、
少し深掘りするだけで、私にはこの言葉の意味することが、わからなくなってしまう。



「普通」という言葉の意味は、私の中で変化し続けてきたように思う。

 .


小さい頃、私にとって「普通」は「フツウ」だった。
ネガティブでもポジティブでもない。

そんなもの、どうでもよかった。

「フツウ」と言われても、「フツウじゃない」と言われても、へぇ〜と思った。

.


小学校に入学してすぐくらい、
私は「普通」になるために必死だった。


もちろん、当時の私は「普通」になろうという意識で日々を過ごしていたわけじゃない。

でも、「遅刻しない」とか「忘れ物をしない」とかそういう「普通」のことをできるようになりたくて、必死に頑張っていたと思う。

できなかったときは、「普通」のことができない自分が悔しくて恥ずかしくて、学校で泣いたこともあった。

(「先生ごめんなさい」と泣きながら忘れ物したことを打ち明けたなんて、今から思うと本当に信じられない。)


あの頃は、問題が解けたら手を挙げるのが「普通」だったから、
私もバンバン手を挙げていたけれど、
小学校3年生になって、
”目立ちたがり”とか”いいこぶりっ子”なんて言葉も覚えて、
私は手を挙げるのを控えるようになった。


「普通」でいることが、
友達と上手くやるコツだったし、
嫌われないようにいることは私にとって、
とても大切だった。

  .


小学校4年生の頃、
担任の先生に

「わかっているのに手を挙げないとか、本当はやりたいのに立候補しないというのは、とても恥ずかしい・格好悪いことです」

と熱弁を奮われたのを一つのきっかけに、
私はまた変わった。

.



私の中で「普通」はどんどん色褪せて、「特別」が眩しく感じられるようになった。


 

「普通」は「つまらない・取るに足らない」とほとんど同義になり、
「特別」こそが目指すべきもの、価値あるものだと思った。

 .


小5でレ・ミゼラブルを読むのは「普通じゃない」とか
高跳びの「才能がある」
なんていう言葉が嬉しくて嬉しくてたまらなかった。


この頃から忘れ物癖もどんどんひどくなっていたのだけれど、
忘れ物の数を数えるシールが、私の名前の横にたくさん貼られているのだって
実は結構嬉しくて、
「忘れ物女王」と先生にからかわれるのも満更じゃないくらいだった。

.


私は「普通じゃない」「特別な」自分にワクワクし、胸をときめかせた。

 .



中学・高校・大学と進むにつれて、
私の世界は広がっていって、

私は自分がとても「普通」だと思うようになった。

「特別」への憧れは消えないままに。

 .

留学しても、
転部をしても、
ボランティアをしても、
「意識高い」活動をしても、

私はどこまでも「普通」で、
その「普通」をもどかしく思いながら、
でも「しょうがない」って受け入れてきたような、
そんな気がする。

.



「普通じゃない」とか「すごいね」とかって、
たまに言われることがあったけれど、
謙遜とかじゃなく、私にはそぐわない言葉すぎて、
どう反応したらいいのか、わからなかった。


こんなに普通なのに、一体何が特別なのか、誰か教えてくださいと本気で思っていた。


 
.


憧れを諦めた人間は、厳しい。

 



「特別」を諦めた私は、
自分を「特別」だと思っているかんじのひとをみると、
どこか寒い感情を持っていたように思う。

 
.



「僕みたいな変な人は…」

といって成功体験を語るひとをみる度に、
私は厳しくその人を観察して、

”結局「普通」じゃん ”

という結論に落ち着き、
セルフブランディングが痛々しい、と思ったし

「今この場にいる皆さんは、選ばれた”特別”な人たちです」

的なスピーチを聴けば、
そんな戯れ言には騙されないぞと身を強張らせた。

.


 

「普通」になろうと努力する人・努力させられている(と当時の私が認識した)人に出会ったとき、
私はとても戸惑った。

 



発達障害がある子の学習サポートをしたときに、
「特別」であることのコストを感じた。

9歳で
3桁かける3桁の暗算ができて、
'Apple'は読めなくて、
想像力がものすごく豊かで、
授業中座っているのは苦手で、
絵が得意で、
クラスにあまり友達のいない彼は、

その学校で「特別」だった。


「普通」にみんなと同じ授業を受けて、
「普通」に友達を作ることができないと、
「”普通”の学校」で生きるのはこんなに大変なのか、
と驚いた。

(彼は、その後, もっと多様なニーズやスタイルに柔軟に応えられそうな学校へ転校した。)



どや街に住むおじさんが「普通」の暮らしがしたいと言って、
“こうならないように、勉強は頑張っておけよー”
と笑ったとき、
私は自分の「普通」の生活が、とても恵まれているものなんだと初めて肌で感じることになった。


 .



サンフランシスコで危ない地域と呼ばれる、テンダーロインを元ホームレスの方に案内してもらったことがある。

 

ホームレス生活の厳しい現実や苦労、
格差社会への不満を聞くことを想定していたけれど、

“ホームレスになりたくてなった”

という話や、
「路上生活する自由」を訴える人に出会ったり、

“この地域には強いコミュニティーがあって、路上生活者は家族みたいなもん、お互いの安全を守りあってるんだ”

なんてロマンチックにホームレス現場を語る人に出会って、
私の中の「ホームレス像」が崩れ、何がなんだかわからなくなった。


(「ホームレスになりたくてなった」というところには、私はどうしても引っかかりを覚えるのだけれど、その話はまた今度。)


 .


アメリカに留学していた頃、
教授の研究を手伝う過程で、
同性婚者のインタビューを聴いたときもそうだった。


どんな苦労話が出てくるんだろうとドキドキしていたのだけれど、
同性愛に対する偏見や差別をその人自身はあまり感じたことがないとのことで、
拍子抜けしたこともあった。

(彼は、人種差別の方に問題意識が強くあるようだった。)


 .


だいぶ話が逸れてきたけれど、
私が言いたいのは要するに、


私が見ている世界は狭くて、
小さくて、
偏っていて、
だから私の「普通」は
すごく狭義的だということ。

 


この世界に、
絶対的な「特別」も「普通」もないということ。


 .



世界が広がって、
私は自分が「普通」なんだと感じ、
落胆したけれど、
もっと広がった先で、
実は「普通」なんてない

—少なくとも、私が思う「普通」は「普通」じゃないかもしれない—

ということに気がついた


というところでしょうか。

.

.

.

 

絶対的に「普通」な人がいないように、

絶対的に「特別」な人もいなくて、

(どちらも相対の話だから、当然なのだけれど)


だから私は、存在もしない「特別」に想いを馳せるのはもうやめたい。

.
 


どんな成功を収めようが、道を踏みはずそうが、
優秀だろうが、拙劣だろうが、
私の心にその人たちの居場所がなければ、
彼らは私にとって「特別」になることはない。

.

でも、例えばこのどうしようもない日記を読んで、
そっと反応をくれる誰かは、
声をかけてくれる誰かは、
私にとって「特別」で、かけがえがない。

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今日数学の質問に答えたあの子も、
昨日悩みを相談してくれた彼も、
太ったねーってからかってくるあの人も、
私にとってはもう「特別」。


 
.

他の人からみて「特別」かどうかは関係ない、
私にとっての、
私だけの「特別」。

 .



自分の中の「特別」(人でも、モノでも、時間でも)が増えていくのが、
ふとした時に(大抵意識していないときに)
「特別」が濃くなっていることに気づくのが、
私はすごく嬉しい。
 



いやなこともあるけれど、人生も世界も捨てたもんじゃないかもねって思えるから。
 



生きる意味とか、成し遂げるべきこと、
なんて壮大なものは私には到底わからなくて、
時々圧倒されそうになるんだけれど、
いいじゃん 楽しめば、って思えるから。


.


 



私は、これからも私の世界の中の、たぶん最も「フツウ」な人として生きていくんだと思う。


「常識的に考えて」とか「普通」って言葉に必要以上に敏感な、フツウの人。

 


でも、こうして「普通」と「特別」の限界に気づいたからには、
小さい頃の私みたいに
「普通」は「フツウ」だと思って、
ネガティブにもポジティブにも捉えずに、生きたい。

 


そして、宙ぶらりんな「特別」を目指すのはやめにして、

私が気にかける人、
大事だと思う人
(…これが生きていく中でどんどん増えていくのが、嬉しくて悩ましい)
の「特別」であることに重きを置きたいと思うのです。

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フツウな私の、フツウな人生が、

誰かの特別になれますように。

と今日も祈って、生きていく。

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これまた大学生の時に書いたもの。

昔書いたものを読み返すのって、いつも不思議な感覚。

拒否反応がでることが大半だけど、
まぁでも、自分の変化を実感できる気がするので、興味深いことは興味深い。

今はまた私にとっての「特別」も「普通」も進化してるかもしれない。
いつか書いてみようかな。

2020.05.06 とがりチヨコ

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