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一家離散するまでの話。

 初めてのカウンセリングに行く前の、中学三年生の頃の話。

 結論から言うと、私の家は離散した
事情は分からない。でも金銭的な事情であることはさすがに度々聞こえる怒鳴り声から察した。

 当時受験を控えていた私は、勉強が全くできなかった。
だけど、幼稚園の先生になりたい!なんていう夢を持っていた。だからどこでも良いから高校には進学したかった。できれば制服の可愛いところが良い。もっと言えば、高校の名前も可愛いところが良い。(安易)

 この学校を目指すんだ!なんて目標はなかったので、ひとまず調べた公立高校を母に話すと、却下された。学校のイメージが悪すぎるらしい。母の言うことは絶対。諦めた。

 結局、頭の悪さに高校進学を危惧した母に言われるがまま、私は誕生日に塾へ通い始めた。家に帰ったらひっそりケーキが用意されていた。チョコケーキ。一人で食べた。美味しかった。

 そして塾に通い始めた私に、これまでで一番嬉しい誕生日プレゼントが贈られた。

 パソコンだ。持ち運びできないようにという理由で、デスクトップのパソコン。
家にいる間はひたすらパソコンと睨めっこ。skypに出会ったのもこの頃。知らない人と話すのはとても楽しくて、母不在の夜中こっそり話して寝落ちする生活が始まった。

 塾にも学校にも通った。だけど成績は伸びなかった。
そりゃそうだ。勉強そっちのけでskypに時間を費やし、ボカロで素敵な曲を聴き漁っていたのだから。でもこの生活に後悔は露ほどもない。私の青春の一ページであり、思い返す記憶の中で数少ない幸せだったな〜というものだから。

 少しは勉強しとけば良かったかもとは思うけど。今の所、算数がぱっと出来ないくらいで生活を脅かすような大きな支障はないので問題ない。

  さて、受験当日。この日は面接だった。雪の日で、駅まで母が車を出してくれた。普段話さない私と母。車内はラジオの声が響いていたと思う。そんな中、ちょっとした爆弾発言をかます母。

 「あのね、みんなバラバラに暮らすことになったから」

 「あ、うん」

 引っ越すんだってことは普段の怒鳴り合い会議でなんとなく分かっていたことだから、青天の霹靂!!なんてことにはならなかった。

 だけど、いくら低偏差値の学校の受験とはいえ、寒さと緊張で震える私に鞭を振るわれたような感覚だった。伝えるタイミング、間違っていたと思うよ。

 そして見事に不合格。

 「修学旅行はどこに行きましたか?」

 「あ、えっと…その……(頭真っ白)」

 多分敗因はこれだ。知らないけど。
頭の悪さも祟って、結局学力試験にも落ちた。

 偏差値低いし公立受かるっしょー!と、あまり考えずに母に許しを貰って決めた、滑り止めの私立高校に通うことが決まった。

 これが第一の転落人生の始まりである。私立校そのものは良い学校だったと思うし、きっと公立校に通っていたら経験できないこともいっぱいさせてもらえたから、そこは何ら不満はない。むしろそういった経験に関してはこの学校で良かったなと思う。

 ただ、悪い人間関係と結びついた。それはまた書いていくことにする。

 そして一家離散した私は高校入学と同時期に母と二人暮らしすることとなった。
のだけれど、何故か祖父と不倫相手の家に同居することになった祖母(意味不明)は、不倫相手からの身体的虐めで結局私と母の家に避難してきた。

 何で生活できると思ったの?ねえ、バカなの?

 と、内心思いましたとさ。


※素敵なモノクロのお写真はもときさんから拝借いたしました。ありがとうございます。


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