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ソウルから慶州、釜山、そしてちょっと朝鮮の歴史

はじめに

ソウルは韓国のほぼ最北に位置する人口約950万人の街で、表紙の写真のような変な日本語もたまに見ることのできる都会である。ソウルは後日レポートしたいと思うが、今回はソウルからKTXで南下し、慶州と釜山を紹介したいと思う。

韓国の鉄道

韓国の鉄道はわが国が建設した。大東亜戦争後、韓国と北朝鮮のものになってしまったが、わが国はその後もODAでソウル地下鉄を建設するなど、大変な貢献をしてることを現代の韓国人は認識してはいないだろう。KTX入札時には、新幹線は坂に弱いとか建設費が高いというヨーロッパ側のネガティブキャンペーンを信じ、慰安婦問題を捏造して反日感情を故意に高めたうえ、入札そのものにわが国を参加すらさせなかったそうだ。その結果できたのがおフランス製のKTXである。

KTXは洗浄していないのか、薄汚れている

ソウルから出発

今日は韓国鉄道の拠点、ソウル駅から出発したい。

左が現ソウル駅で中央が旧ソウル駅舎

旧ソウル駅もわが国が建造し、レンガ造りの趣のある駅舎であるが、いまはショッピングセンターのような駅舎に変わっている。改札はなく、ヨーロッパのような感覚でオペレーションされており、ホームに降りると、KTXが多く停車しているが、ごくたまに普通の列車がみられる。

KTX、デザインは悪くない
ムグンファ号

入口が一箇所なので、結構歩き、自分の号車に着く。ホームが低いのでよいしょっとステップを登って乗り、狭い席に座る。出発時も発車ベルはなく、静かに走り出す。

慶州は京都ではなかった

2時間30分ほど乗ると慶州だ。定刻に着くことはなく、10分くらいは遅れる。

新慶州駅

新慶州駅からはバスを乗り継ぎ、韓国の誇る世界遺産、仏国寺に行ってみよう。韓国を旅する時には朝鮮語が読めないとバスは使いづらい。

国宝の石段、青雲橋、白雲橋、蓮華橋、七宝橋

仏国寺は新羅時代に作られ、国宝の建造物が多い。紫霞門まえの石段はひとつに見えるが、これを4つに分けて名前がつけられ、国宝になっている。韓国では石段が国宝になるのである。

仏国寺の本殿

16世紀、秀吉は朝鮮出兵のときに仏国寺を焼き払ったそうだ。そのため建物はその後のものにならざるえないが、筆者の近所の神社のほうがよっぽど趣があると思った。

国宝の多宝塔

多宝塔も国宝であるが、正直、あんまり感動はなかった。
その後、世界遺産の石窟庵に行った。石窟庵は写真は撮れないが、崩壊寸前のものをわが国が修復したことで、いまでも見ることのできるのだが、韓国はその修復にも難癖をつけた経緯がある。

慶州市内に戻り、ふと見上げるとなにやら小さい山が見えた。それは古墳であった。

慶州は古墳の街だった

円墳がたくさん並んでいる、めずらしい風景である。細かいことは分からないが、新羅の国王たちの墓なのであろう。

木が生えている円墳

結構大きな木が生えていたが、これは自然に生えたものなのだろうか、誰かが植えたのだろうか。

支那の吉林省に広開土王碑がある。筆者は直接には見てもわからないが、
「そもそも新羅・百残は(高句麗の)属民であり、朝貢していた。しかし、倭が辛卯年(391年)に海を渡り百残・加羅・新羅を破り、臣民となしてしまった。」
と書いてあるのだそうだ。すなわち、4~5世紀には新羅はわが国の支配下にあったのであるが、韓国は、これにもわが国が広開土王碑を大東亜戦争中に改ざんしたのだという根拠のない難癖をつけている。

慶州は韓国の京都と言われているらしいが、一体だれが言ったのだろうかと思った。まったく違う。

国際市場であいましょう

慶州の先は終点釜山である。

釜山駅前

釜山は海のすぐ近くまで山になっており、神戸や長崎のような雰囲気を覚えた。バスだけではなく、地下鉄があるので、移動しやすい。チャガルチが繁華街のひとつであり、ここにはチャガルチ市場がある。

チャガルチ市場はビルで1階が魚市場と付属の食堂、4階が食堂、2階や3階は別なのを売ってる市場がある。食堂の客引きは異常だった。一人の客に対して何件もの客引きが群がってきてつきまとう。当然ながら無視して出ると、そこにはまともな市場があった。

チャガルチ市場のまえの魚市場

彼らはこのように縦に並べる。太刀魚が有名らしく、大量の太刀魚が並んでいるほか、なまえはわからないが見たことあるような魚や干物も並んでいる。日本海側なので、北陸と同じような魚が取れるのであろう。大規模な市場であり、ソウルでは見られないのではないか。釜山に行ったら行く価値はあると思う。

チャガルチは韓国のマチュピチュと呼ばれている甘川文化村も近い。非常に傾斜のきつい坂をあがってゆくと到着する。長崎のような場所だ。

甘川文化村(カムチョンムナマウル)
甘川文化村(カムチョンムナマウル)

マチュピチュは言い過ぎだと思うが、たしかにきれいな良い景色であり、釜山に行く機会があれば、ここの行ってみるとよいと思うが、バスで行くことをお勧めする。歩くと大変だ。
甘川文化村の歴史は現在の景色からはまったく想像ができないものであった。もとは朝鮮戦争の際に北朝鮮から避難してきた人々が家を密集して建てた山肌の集落・タルトンネ(貧しい人々が集まって住みはじめたという町)が始まりである。

朝鮮は大東亜戦争後にわが国の統治から解放されたが、その扱いに関するコンセンサスはUnited Nations (UN, 連合国, そしてわが国では国連といまでは呼ばれている)内にはなく、また朝鮮人のなかでもとれなかった。そのため、38度線でアメリカとソ連によって信託統治され、1948年に北朝鮮と韓国という別個の国家が成立した。1950年6月25日に、北朝鮮の金日成が、支那に続いて朝鮮半島でも社会主義による統一国家の建設を目指し、韓国に侵攻した。北朝鮮は一気に釜山まで侵攻した。その後、9月15日には国連軍の名前をつかったアメリカ軍が仁川から上陸し、ソウルを奪回。さらには10月20日に平壌も陥落させた。ここで支那の毛沢東が大量の義勇軍を送り、平壌はおろか、ソウルを再び制圧するも、またアメリカ軍が奪還し、ついには、1953年に休戦に至った。

このときに北朝鮮から来た人が作った甘川が、いまや一大観光地となっているが、北からの脱出してきた男の生涯を描いた”国際市場で逢いましょう”という映画も釜山の国際市場が舞台のひとつである。

国際市場のアリラン通り

現在の国際市場はただの商店街であり、ぱちものもたくさん売られている。おもしろいのは路上食堂で、このような風景は見たことがなかった。

夜の釜山駅

以上、今日は韓国を北から南まで旅して、感じたことを書いてみた。ソウルに戻るとしよう。






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